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産業衰退、震災…それでも伝統産業を継いだ34歳が売上を拡大するワケ

2025.04.17 2025.04.17 15:56 企業
産業衰退、震災…それでも伝統産業を継いだ34歳が売上を拡大するワケの画像1
田谷漆器店代表の田谷昂大さん

●この記事のポイント
・能登半島地震の影響で、重要無形文化財となった歴史を持つ輪島塗は今、産業として大きな苦境に立たされている
・震災で仕事場と実家、完成目前のギャラリーを失った田谷漆器店代表の田谷昂大さんに話を伺った。
・輪島塗復興のために立ち上げたクラウドファンディングでは、全国から1億5,000万円もの支援を獲得

 伝統工芸で初めて重要無形文化財となった歴史を持つ輪島塗は今、産業として大きな苦境に立たされている。記憶に新しいところだが、2024年元日に発生した能登半島地震において、石川県輪島市では最大規模の震度7を観測。被災により、廃業や離職を余儀なくされた事業者も少なくない。

 そんな絶望的とも言える状況下で真っ先に再生への道を宣言したのが、輪島塗の老舗、田谷漆器店(たやしっきてん)だ。震災で仕事場と実家、さらには完成目前のギャラリーを失った代表の田谷昂大さんに、その原動力について話を伺った。

●目次

「とにかく言ってしまえ!」退路を断ったからこそ前に進めた

「市内の様子を見た瞬間、もう絶対に無理だと思いました。息子や家のローンのことを考えたら、廃業して東京で仕事を探すか本気で悩みました。だけど周囲の人や全国の見知らぬ人から励ましの声が次々に届いて、続けなきゃいけないと奮い立って。でも、仮眠を取って翌日また辺りを歩いたら、これはやっぱり無理だなって……その繰り返し。何度も迷って、もう決めなければダメだ!と思って1月3日の夕方に会社のホームページとSNSで『僕らは再生します』という宣言を出したんです。それを機に父と話して、代表のバトンを正式に渡してもらいました。その瞬間から迷いがなくなりました」

 先行きがまったく見えない中、いち早く舵を切ることに不安はなかったのだろうか?

 「正直、怖かったです(笑)。でもとにかく言い切ってしまえって。実はこれ、僕が今までもずっと続けてきた方法なんです。言ったからには覚悟を決めて行動せざるを得なくなる。そうするといろんな人が助けてくれたり、集まってくれる。このときもいろいろなところから一緒に頑張りたいという人が集まってきてくれて、社員数も増えました」

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地震直後に発生した大火事で完成目前のギャラリーが燃え落ちた

 今年34歳になる昂大さんが東京の大学を出て、家業に就いたのは2016年のこと。以来、法人向けの製造や海外への販売、職人が使う道具をアレンジした料理ベラの販売、サブスクによる漆器のレンタルサービス、さらには輪島塗で食事を提供する飲食店「CRAFEAT」を開店するなど、次々と新しい取り組みに着手してきた。

 その結果、会社の売り上げは約3倍にまで拡大。震災以前から過疎化や斜陽化が進む地場産業に、新風を巻き起こす「塗師屋(ぬしや)」として注目を集めてきた。

 「塗師屋というのは、いわば職人を束ねて全体を統括する漆器プロデューサー。生産工程が多く分業化された輪島塗独自の職種です。

 営業や商品開発も手掛けるので、行政や芸能人、アスリートからの注文や、家具や文房具の企業とのコラボなど、いろいろな場所に繋がりが生まれる。本当に刺激的な仕事です」

 ところで彼は、2023年6月に自社ホームページから創業年を削除。田谷漆器店が積み重ねてきた年月をアピールすることをやめた。

 「老舗であることに寄りかかることはウチらしくない—―そう思って決断しました。田谷漆器店は、むしろ常に新しいことに取り組み続けてきた会社。これからはその精神をもっと大切にしようと考えました。

 例えば、祖父も父もお客様の要望に絶対にノーと言わなかった。自分なら断ろうかと思うような納期の発注でも、昔馴染みの職人さんに頼んだり新しい生産ルートを見つけてきて対応する。伝統に安住するのではなく工夫しながら切り開く姿を見てきました。いま振り返ると、このときの決断も退路を断って前に進むやり方だったかもしれません。」

「全部変えなきゃ」と思わないほうがうまくいった

 とはいえ、ただでさえ保守的にならざるを得ない伝統工芸業界で、新しい挑戦を続けるのは重責なはずだ。

 「プレッシャーは常にあります。入社してすぐ、父からみんなの前で言われたんです。昂大は既存のお客様のところには行かせない。新規のお客様だけで誰よりも売上がなければ、お前の居場所はないって。当然、最初の数年は本当に苦しかった。でもそれを乗り越えたおかげで後継ぎとしてみんなに迎え入れてもらえたし、新しいことに取り組む度胸もつきました。それにやっぱりワクワクしちゃうんですよ。僕は何かしようとしてる時が一番楽しいみたいです」

 しかし新たな挑戦や変革が必ずしも成功し、会社に好循環をもたらすとは限らない。逆風だらけの伝統工芸業界は特にそうだろう。では同社が変化し続け、成長してきた秘訣はどこにあるのだろうか?

 「時には周囲からの反発も当然あります。だから飲食店経営などの新規事業は別会社を立ち上げ、自分が全て責任を負う形にして何とかみんなに納得してもらいました。その辺は結構したたかかもしれません(笑)。あと、一度に大きな結果や劇的な変化を求めてきたわけじゃないんです。確かに入社してすぐの頃は、あれもこれも全部変えなきゃと焦っていました。でもそれだと険悪な雰囲気になるだけで、誰も付いてきてくれない。だから人が気付かないような部分からしれっと変えてみたり、少しずつ積み重ねる方法にやり方を変えました。そのおかげか社内の結束は変わらないまま変革してこられたと思います」

 マネジメントスタイルも独特だ。驚くことに管理職らしい管理は、ほとんど行わないという。これも彼の言う「したたかさ」のなせる技だろうか?

 「常識とは違うかもしれないけど、プレイング・マネージャーが僕の理想の社長像です。そもそも輪島塗作りって、職人さんの体調やお天気一つで進捗が変わってしまうくらい変数だらけ。完全にコントロールはできないし、権限を振りかざして仕事を押し付けても効率や業績は上がらない。それより僕が働く姿を見てもらって、それを事例の一つとして自分のやり方を見つけてもらえればと思っています。そういえば先日、社員から『ウチの会社はオリンピックの体操団体みたいですね』と言われました。それぞれ別の競技をやってるけど、みんなで勝利を目指している。ちゃんと伝わってるんだと嬉しくなりました。

 それは新しいことを始める時も同じ。もちろん入念にシミュレーションを重ねるけど、どうしても現実は想像の範囲外に行き着く。だからゴールから逆算するようなプロセス管理はあんまり意味がないと思う。それよりも、目の前のことに少しずつ、ときにはしれっと取り組んでいく。そうした積み重ねの先にしかゴールはないと思っています」

窮地だからこそできること

 被災後も昂大さんの活動は止まらない。輪島塗復興のために立ち上げたクラウドファンディングでは、全国から1億5,000万円(うち国内は8,000万円)もの支援を獲得。さらには視察に訪れた岸田文雄前総理との会談がきっかけとなり、田谷漆器店の輪島塗はバイデン前米国大統領への贈答品に選ばれた。

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岸田前総理がバイデン前大統領へ贈った輪島塗のカップ

 「注目を浴びたことで、昨年の売上はむしろ例年より上がりました。ただ地震から1年経って更地も増えたし、輪島を離れる人もいる。輪島塗の状況は確実に深刻化していて、ここからが正念場だと思います。一方で故郷を立て直すために輪島に残ってくれる人もいる。苦しい状況だけど、今だからこそ創造的なことができるとも思う。だから皆んなにはいろんなことに挑戦しようと話していて、今後が楽しみな部分もあります。

 そもそも僕が入社した時には産業としてとっくに下り坂だったんです。でも、上り調子の時に貢献できることなんて少ししかない。下っているときだからこそ貢献できることがたくさんあるし、それが自分たちの存在価値になると思うんです」

 飄々としつつも大胆。5月には市内に輪島塗の工房を新設すると共に、誰でも宿泊可能なトレーラーハウスや能登の特産品が買える販売所などを併設した「輪島塗ビレッジ」を開設予定だ。

 「輪島塗をきっかけに集まった人が、楽しく遊べるような場所にしたいと思っています。目標は漆器を買いに世界中から輪島に人が来るような未来を創ること。お金もかかるし本当に人が来てくれるか今はめちゃくちゃ不安ですが、やっぱりちゃんと宣言しないと退路を断てないと思って、できるだけ人に言うようにしています。

 父が言ってたんです。先人たちが試行錯誤して紡いできた美しい日本の漆器文化を、次の世代に継承していくことが田谷漆器店の存在意義だって。自分も輪島塗の魅力を知っているからこそ、いろいろな方法でより多くの人に伝えていきたい。それが漆器で食べさせてもらってる人間の責務だと思っています」

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(文=米津香保里/経営者の担当編集者)

田谷昂大

輪島塗の老舗「田谷漆器店」代表。1991年輪島生まれ。成城大学卒業後、24歳で帰郷し田谷漆器店に入社。漆器プロデューサーとして活動する傍ら新会社The Three Arrowsを創業。伝統工芸品で食事ができるレストラン「CRAFEAT」を金沢に開店するなど次々と新規事業に着手。2023年、能登半島地震直後に代表に就任。