石油はあるのに、なぜ化学製品は足りない?ナフサ危機が暴いた「備蓄の盲点」

●この記事のポイント
ホルムズ海峡封鎖で、約20日分しかなかったナフサの民間在庫が底をつく懸念が急浮上。国内エチレン設備12基中6基が減産し、製造業の約3割が調達リスクに直面。原油備蓄254日分と現場の欠乏が並存する構造的矛盾の背景と、川崎重工が水素からナフサを合成するFT技術で挑む脱中東依存の展望を解説。
トイレや浴室の樹脂パーツが届かない。断熱材の納期が数カ月先になった。壁紙や塗料の価格が数割跳ね上がった――。この数カ月、住宅・建設業界の現場からこうした声が相次いでいる。
その一方で、ガソリンスタンドは今日も普通に開いており、クルマはどこにでも走っている。政府は「ナフサを含む化学製品の供給は年を越えて継続できる見込み」と発表している(経済産業省、4月30日)。
この「言葉と現実のギャップ」こそ、今回の危機を読み解く出発点だ。政府が嘘をついているわけでは、おそらくない。ただ、政府と現場が見ている「数字の種類」が根本的に異なる。一方は将来のフロー(いつ・どこから調達できるか)を見ており、もう一方は今日のストック(手元に何がどれだけあるか)を生きているのだ。この構造的なズレを理解することが、パニックにも楽観にも流されない、正確な現状認識への第一歩となる。
●目次
ナフサ生成の「不都合な真実」
ナフサとは、原油を加熱・蒸留する際に沸点の違いによって分離される留分の一つだ。「LPガス→ナフサ→ガソリン→灯油→重油」の順に取り出され、プラスチック・合成ゴム・合成繊維・塗料・医薬品など、現代の製造業を支えるほぼすべての化学製品の出発原料となる。
重要なのは、原油の中にナフサが「入っている」だけでは、すぐに使えるわけではない点だ。精製プロセスを経て初めてナフサとして取り出せる。しかも、製油所の設備には物理的な限界があり、稼働率を一気に引き上げることはできない。
さらに構造的な問題がある。国のガソリン価格抑制策(補助金)は「燃料」を対象としており、化学原料であるナフサには直接適用されにくい。この価格構造のもとでは、製油所が収率設定でナフサより燃料を優先することは経済合理的な判断となる。
加えて、日本のナフサの大部分は「輸入」に頼っている。2024年には中東からのナフサ輸入依存度が73.6%に達しており、2020年時点の53.1%から急上昇していた。つまり国内に原油の備蓄があっても、それをナフサに変える精製能力が追いつかない場合、化学産業への供給は止まりうる。
「20日分」が意味すること──政府と現場の数字のズレ
2月末、中東情勢の緊迫化に伴い、ホルムズ海峡が事実上の封鎖状態に入った。封鎖開始時点での国内民間ナフサ在庫はわずか20日分程度であり、3月のナフサ輸入量は前年同月比で約2割減少した。
一方、原油の国家備蓄は254日分存在する。この数字だけ見れば、危機は遠い話のように映る。しかし石油備蓄法は「燃料」を対象としており、化学原料であるナフサは法律上、国家備蓄の対象外だ。「原油はたっぷりあるのに、建材の原料は20日で底をつく」という状況は、制度の設計上、あらかじめ内包されていたリスクだったともいえる。
3月のナフサ市況は、わずか2週間で1トンあたり600ドル台後半から1,100ドル前後へと急騰した。国内に12基あるエチレン生産プラントのうち、4月初旬時点で6基が減産体制に追い込まれており、フル稼働を維持できているのはわずか3基という異常事態となった。
政府は4月13日の閣僚会議で石油20日分の放出と民間備蓄義務の引き下げを決定した。対策として、米国を中心にアルジェリア・オーストラリアなどから調達を拡大し、1カ月あたりの中東外地域からの輸入量は4月は倍増、5月以降は3倍程度を見込む。中東以外からの輸入を加速することで、川中製品の在庫を活用しながら供給を確保できる期間は年を越えて延長される見込みだ。
エネルギー安全保障に詳しい専門家は、今回の事態についてこう分析する。
「政府と現場の認識差は、制度設計上の盲点が顕在化したものです。石油備蓄法が整備された1970〜80年代、化学原料としてのナフサの重要性はここまで高くなかった。エネルギーの”量”だけでなく、”品目別の出口”まで含めた安全保障の概念への転換が、今まさに問われています」(エネルギー研究・政策アナリストの田代隆盛氏)
帝国データバンクの調査では、化学製品メーカー52社から直接・間接的に仕入れる製造業は全国で約4万7,000社にのぼり、製造業全体の約3割がナフサ関連製品の調達リスクに直面する可能性があるとされた。これは単なる「石化業界の問題」ではない。食品包装材、自動車部品、医療機器、さらには住宅建材まで、その波及は経済の毛細血管にまで達している。
川崎重工が提案する「原油を使わないナフサ」
こうした状況のなか、一つの注目すべき動きが生まれた。
川崎重工業は5月12日の決算説明会で、水素からナフサを生産する技術の提案を始めたことを明らかにした。同社は天然ガス由来の水素などからガソリンを製造するプラントをトルクメニスタンに納入した実績を持ち、「同様の商業プラントは世界でも珍しい」とされる。
技術の核心は、FT合成(フィッシャー・トロプシュ合成)と呼ばれる化学反応だ。一酸化炭素と水素を触媒上で反応させると炭化水素が生成され、条件を制御することで原油を使わずにナフサを「合成」できる。再生可能エネルギー由来の水素とCO₂から合成する「e-naphtha(イーナフサ)」概念もこの延長線上にある。
橋本康彦社長は「水素を使ってガソリンやナフサをつくれると知らない人がまだ多い。色々な方に紹介し期待を寄せられている」と話した。これは単なる環境対策の話ではない。原油に依存せず水素を活用してナフサを国内外で柔軟に生産できれば、調達先の分散が進み、地政学リスクへの耐性向上につながる。経済安全保障の文脈で語られるべき技術だ。
ただし課題は明確だ。現状、グリーン水素の製造コストは石油化学原料として採算がとれる水準には遠く、スケールアップには時間を要する。川崎重工が提案している段階は、まだ商業化の入り口だ。
この点について、化学工業のサプライチェーンに詳しい専門家はこう述べる。
「今回のナフサ・ショックは、代替技術への投資を加速させる歴史的な転換点になりえます。コストが高いことは確かですが、有事のリスクを”保険料”として換算すれば、経済合理性の評価は変わってくる。特に川崎重工の技術は商業実績を持つ点で、他の研究段階の技術とは一線を画しています」(戦略コンサルタントの高野輝氏)
バイオナフサ(植物油・廃棄油由来)やケミカルリサイクル(廃プラスチックをナフサに再変換)といった並行する技術もある。ENEOSや三菱ケミカルによる廃プラスチック油化装置の商用運転など、ケミカルリサイクルへの投資は今次危機を受けてかつてないスピードで加速している。
「効率化」がリスクに変わる時
今回の危機が示す構造的な教訓は、エネルギー政策のあり方そのものに関わる。
安価な中東産ナフサへの依存を深め、国内の精製設備を縮小してきた「効率化」の選択は、平時においては合理的だった。しかしホルムズ海峡という一点の地政学リスクが現実化した途端、その効率性は脆弱性に変わった。日本のエチレン原料の約95%をナフサが占めており、米国(シェール由来エタンが主体)や欧州(LPGを一定活用)と比べ、突出した一本足構造だ。
翻って、今回の危機から際立ったのが信越化学工業の事例だ。信越化学工業は三菱ケミカルグループや三井化学などと異なり、シェールガスから採れるエタン由来でエチレンを製造しており、日本特有の制約や中東のカントリーリスクにあまり影響されずに製造を続けている。原料を分散させていた企業と、一点集中の企業との間で、耐性に大きな差が生まれた。
重要な点が二つある。第一に、エネルギー安全保障とは「量」だけでは完結しない。原油の備蓄が何百日分あっても、それを必要な「形」(この場合はナフサ)に変換できる能力がなければ、産業現場には届かない。第二に、川崎重工のような代替技術への投資は、単なるグリーン戦略ではなく、日本の製造基盤を守るための「産業保険」として位置づけ直す必要がある。
供給不安そのものは、代替調達の多様化が進む中で徐々に緩和に向かいつつある。しかし今回の危機が問いかけているのは、目先の安定ではなく、より根本的な問いだ。「安くて便利な輸入品」に依存する構造は、必ずどこかに見えないリスクを蓄積する。それがいつ、どのような形で顕在化するかは、地政学の気まぐれに委ねられている。
中東の海を通らずにナフサを作る日を目指した川崎重工の挑戦は、日本の製造業が次の有事を乗り越えるための、静かで重要な一歩だ。
(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=田代隆盛/エネルギー研究・政策アナリスト)











