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JR誕生、33年目の真実…不可能とされた国鉄民営化、改革3人組はJRの最高権力者に

文=編集部
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1964年に開業し、国鉄の象徴となった新幹線(「Wikipedia」より/Spaceaero2)

 JR東日本元社長の松田昌士(まつだ・まさたけ)氏が5月19日、肝臓がんで死去した。84歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長女の斉藤美詠子(みえこ)氏。

 1987年4月1日、国鉄は解体され、難産の末にJR各社が誕生した。本州は東日本、東海、西日本の3社に分割され、国鉄時代に「改革3人組」と呼ばれた男たちが、それぞれの会社の役員に就き、その後、3人は社長になった。

 JR東日本は松田、JR東海は葛?西敬之(よしゆき)、JR西日本は井手正敬(まさたか)である。国鉄入社が2年ずつずれている3人は、井手をリーダーに、松田が参謀、葛?西が切り込み隊長の役割だった。

 松田は1936年1月9日、北海道常呂郡野付牛町(現北見市)に生まれた。61年、北海道大学大学院法学研究科を修了。同年、日本国有鉄道(国鉄)に入社。父親は元札幌駅長で親子2代の国鉄マンである。国鉄の幹部候補生は、ほぼ2年周期で地方局の実習生、本社の課員、地方局の課長、本社の課長補佐、地方局の部長と昇進していく。3人が本社勤務になったことで「改革3人組」を結成する条件が揃った。

 3人組は国鉄・民営化を視野に行動を開始した。それぞれが上下の年次に同志を広げていった。東京・神田の飲み屋でアンコウ鍋をつつきながら、国鉄再建を語りあったという。81年暮れのこと。3人組は隠密裡に自民党運輸族の1人、三塚博に接触。職場の荒廃ぶりを縷々(るる)説明した。トイレ掃除などの雑務は管理職の仕事。遅刻、早引けが横行し、ヤミ休暇やヤミ出張がはびこり、それを本社幹部は見て見ぬふりをしている。職場規律は緩み切っていた。「なんとかしないと国鉄は潰れます」と訴えた。

 82年2月、自民党は「国鉄再建に関する小委員会」の設立に踏み切った。この通称、三塚小委員会が改革派の秘密事務局となり、情報の発信基地となる。82年7月、土光臨調(第2次臨時行政調査会)は「国鉄は5年以内に分割・民営化すべき」と明記した第3次答申を提出。同年11月に発足した中曽根康弘内閣は積極的に分割・民営化を進めていく。83年6月、国鉄再建監理委員会が発足。国鉄改革の第2幕が上がった。

「国体護持派」による改革派の粛清

 こうした最中、自民党の運輸族が分裂した。分割・民営化に反対する加藤六月に対して、三塚博は改革派に軸足を移す。84年7月『国鉄を再建する方法はこれしかない』と題する本を出版した。

「経営改善計画が失敗した場合には分割・民営化する」としてきた自民党は、党の方針を大転換し、三塚は分割・民営化を前面に押し立てた。葛?西は日本経済新聞に連載した「私の履歴書」にこう書いた。

<三塚さんの要請を受け、私たちは水面下で協力した。国鉄労働組合(国労)は「三塚委員会の背後にはKIM(キム)がいる」という噂を流布し、国鉄内部でも公然の秘密となっていた。葛?西(K)、井手正敬(I)、松田昌士(M)のイニシャルを並べたものだ。そして三塚本は国鉄内で禁書扱いになる>

 KIMは国鉄護持派(分割・民営化反対派)の猛烈な巻き返しに遭う。首謀者の井手が、まず槍玉にあがった。84年9月、井手は総裁室秘書課長から東京西鉄道管理局長に左遷された。本社の経営中枢から弾き飛ばされたわけで、みせしめの降格人事であった。半年後の85年3月、今度は松田が本社経営企画室計画主幹の椅子を追われ、北海道総局総合企画部長へ異動を命じられた。

 松田は人事の発令直後、東京・丸の内の国鉄本社に近いパレスホテルのバーで午後10時過ぎまで部下と酒を飲みながら「これで終わった」と思った。翌朝には辞表を叩きつけるつもりだったが、三塚代議士の第一秘書も駆けつけ、必死の説得を受けたことから考えを変え、故郷・北海道に戻ることにした。「自分のために作られたポストで前任者も後任者もいなかった」という。松田は短気を起こさず国鉄にとどまった。これがのちのち、JR東日本社長の座を手繰り寄せるチャンスとなった。

 粛清の嵐が吹き荒れた。改革の連判状に名を連ねた同志たちが、次々と本社から出された。改革派の分断・島流しである。だが、葛?西だけは職員課長のまま本社に残った。次は葛?西が危ないと聞いた三塚は国鉄総裁の仁杉巌に会って言った。「よもや葛西君まで飛ばすんじゃないでしょうね。そんなことをすれば政府と党に弓を引くことになりますよ」。

 三塚はブレーンである葛?西を救済するため、政治的圧力をかけたわけだ。これで葛?西は首の皮一枚でつながった。改革派は反撃する際の橋頭堡を本社に残すことができた。

中曽根政権は国鉄経営陣を更迭

 官邸で大きな動きがあった。国鉄再建監理委員会は最終答申を前に、国鉄経営陣の入れ替えを進言した。中曽根首相は85年6月、仁杉総裁ら7人を更迭。間髪を容れず、杉浦喬也・元運輸次官が後任の総裁に決まった。更迭劇から1カ月ほどたった85年7月、国鉄再建監理委員会は国鉄を民営化し、旅客を6部門、貨物部門を全国1社とする最終答申案を発表した。

 85年12月、第2次中曽根改造内閣で三塚は念願の運輸大臣になった。新総裁になった杉浦は、各地に散らばっていた改革派を本社に呼び戻した。松田の北海道勤務は8カ月で終わった。86年、改革派の陣容が整った。井手が総裁室長として全体を統括。松田は国鉄再建実施推進本部事務局長となり運輸省との折衝や新会社のフレームづくりを担当した。葛?西は職員局次長として雇用を担い、労働組合と対峙した。

 分割・民営化に向けて、大合理化が実施された。国鉄職員27.7万人のうちJR各社に20万人が採用された。5.2万人が退職、2.4万人が国鉄清算事業団に移された。JR各社で採用されなかった人のほとんどが、社会党系の国労(国鉄労働組合)の組合員だった。

 中曽根政権の政治的目的は、民営化の名のもとに日本最大・最強の労組といわれた国労を潰し、社会党の力の源泉となっていた総評を解体することにあった。中曽根は、その政治目的を達成した。

3人組の人事に番狂わせ

 86年7月、運輸相は三塚から橋本龍太郎に交代した。これが、新生JRグループの役員人事に大きな影を落とす。三塚が権力を失ったことから、改革3人組のリーダーだった井手の人事が覆された。幹部のJR各社への割り振りは、総裁室長の井手が中心となって進めてきた。東日本に井手、東海に葛?西、JR北海道に経営計画室審議役の松田が行くことになっていた。

 しかし、この人事構想は白紙に戻った。「JR東日本の社長となる住田正一・元運輸次官が、井手の受け入れを拒否したからだ」と取り沙汰された。三塚色が強かった井手を住田が嫌ったものとみられる。

 87年4月、JRグループが発足した。松田がJR東日本の常務取締役、葛?西はJR東海の常務取締役、井手はJR西日本の副社長となった。井手は西日本に押し込められ、下馬評にも挙がらなかった松田が東日本で中枢の位置を占めた。改革派のリーダー・井手が都落ちし、松田が本丸の東日本で大抜擢された。この人事が民営化したJRの最大のサプライズだった。

 以後、JRグループは東日本の松田を中心に回っていくことになる。

3人組は権力奪取が最大の目的だった

 最後の国鉄総裁となった杉浦は、「運輸省と国鉄にとって分割・民営化という考え方は『革命』であった」と回想している。民営化に反対する国鉄内の圧倒的多数の国体護持派と闘い、不可能にみえた国鉄改革を実現した3人組は、革命の志士にたとえられた。国鉄改革3人組はJR 3社の社長、会長となり、いずれも独裁色の濃い権力者となった。3人組は権力の奪取を最初から目指し、その実現のために民営化後の青写真を描き、それを実行し、成功に導いた、といえる。

 多くの革命では、権力を奪取したあと、同志の粛清が行われる。案の定3人組にも亀裂が生じた。原因は労働組合対策だった。国鉄革命を成就させ、JR 3社の権力者となった3人組の評価は、歴史の審判に委ねられた。

(文=編集部、文中敬称略)

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