世界スーツ業界の総本山、ブルックス・ブラザーズ倒産…旗艦店跡地にユニクロ出店の意味
ブルックス・ブラザーズの店舗(「Wikipedia」より)
米国でもっとも歴史がありアメリカントラッドの総本山と呼ばれてきたブルックス・ブラザーズが7月8日、連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請した。米国歴代大統領45人のなか、大統領としてはオバマ氏が39番目の顧客であった。1865年にリンカーン大統領がフォード劇場で暗殺された際の上着や、ポップアーティストのアンディ・ウォーホルの左右色違いのソックスなどもブルックス・ブラザーズだった。
米国富裕層の成功の象徴であるファッション企業でさえ破綻してしまった。デラウェア破産裁判所に提出された資料によれば、同社の資産および負債額は5億~10億ドル(約535~1070億円)。1818年以来、常に革新的ながら米国独特のスタイルを保ち続けてきた企業の輝かしい歴史を振り返ってみたい。
コロナ禍が引き金になったとはいえ、ウォール街の紳士たちを上顧客としてきたブルックス・ブラザーズのスーツスタイルは、時代の中で消えてゆくのであろうか。ブルックス・ブラザーズのニューヨーク5番街の旗艦店跡地にオープンしたのは、ユニクロだったが、象徴的な出来事といえるだろう。
1.1818年創業の歴史
ブルックス・ブラザーズの200年を超える社史は、非常に素晴らしいものである。1861年に開戦した南北戦争、1920年代末からの世界大恐慌、第二次世界大戦時の物資不足など大きな社会的危機を乗り越えてきた。明治政府が樹立した1868年よりさかのぼること50年、1818年4月7日、45歳のヘンリー・サンズ・ブルックスがニューヨークで製造と販売を兼業する会社として創業。すでに製販一体体制で完璧な最高品質を絶対の理念としていた。
1849年にアメリカで最初にスーツの既製服を販売し、一攫千金を狙う多くの開拓者が購入して西部に向かった。急成長する事業を息子たちに引き継ぎ、1850年に社名をブルックス・ブラザーズに改め、ロゴにファインウールのシンボルであるゴールデンフリースを採用し今日に至る。
ちなみにニューヨーク・タイムズの創刊は1851年、ニューヨークに初の地下鉄が開通したのは1904年、瓶詰のコカ・コーラが販売されたのが1894年であり、いかにブルックス・ブラザーズの歴史が古いかがわかる。
1896年、ブルックス・ブラザーズの定番ポロカラー(ボタンダウン)シャツをブルックスの孫、ジョン・E・ブルックスが発表し、以降、アメリカントラッドの象徴となる。1900年代に入り、英国発祥のハリスツィード、サマーシーズンのレジャーウエアとしてのマドラス、シェトランドセーター、No.1サックスーツと名付けられた段返り3つボタン、ナチュラルショルダー、ダーツのないフロントのスーツが20世紀初頭から60年間、アメリカ東部のエリートビジネスマンの制服となり、アメリカントラッドとなった。
そのスタイルが1960年代、石津謙介氏によりアイビー・スタイルとして日本に紹介され、VANの一大ブームが起こった。英国軍服であったレジメンタルタイの縞模様を反対にして、普段に着用できるレップタイと名付けて商品化。ブルックス・ブラザーズは1909年にはニューヨークから車で3時間半、ボストンから車で1時間半のニューポートに季節限定店をオープンしている。ゴールデンエイジと呼ばれた時代の富豪たちが豪華な別荘を競って建てた夏の別荘地である。現在でも有名な豪邸が現存し、立派な観光資源となっている。
ブルックス・ブラザーズは1915年にグランド・セントラル・ステーションの完成後に現在も本店があるマディソン街346番地に移転。1917年から始まった第一次世界大戦で海外派遣される軍隊の軍服の準備に関わる。1920年代に『グレート・ギャツビー』の著者F・スコット・フィッツジェラルドが愛用し、ブルックス・ブラザーズは東部のエスタブリッシュメント(支配層)に浸透したブランドとして地位を確立してゆく。1935年にはシアサッカーのスーツをフロリダ州の高級別荘地のパームビーチから名をとり、パームビーチ・スーツとして紹介した。
2.戦後の発展と急激なビジネススタイルの変化
第二次世界大戦のヤルタ会談でフランクリン・ルーズベルト米大統領が羽織る大型ケープは、ブルックス・ブラザーズ製であった。戦後すぐにブルックリンに注文服工場、隣のニュージャージー州のパターソンにメンズシャツ工場を新設し、1950~60年代にはアメリカの繁栄と共に業容は拡大していく。そして1979年、海外1号店として日本初の青山本店がオープンする。
1980年にはノースキャロライナ州ガーランドにシャツ工場を新設。1998年にはノンアイロンシャツを発表。そして2001年9月11日の同時多発テロ事件後にイタリアの世界最大の眼鏡製造卸企業グループ、ルクソティカ・グループの御曹司クラウディオ・デル・ヴェッキオに買い取られた。彼は従来の経営手法を刷新し、2006年にはアメリカントラッドのシルエットに加え「リージェントフィット」や「ミラノフィット」を加えた。ほかにも、2007年に新進デザイナーのトム・ブラウンを迎え、ファッショナブルなトラディショナルライン「ブラック フリース バイ ブルックス・ブラザーズ」をスタートさせている。
生産面でも2008年に70年の歴史ある製造会社を買収。2009年には最新設備の工場をマサチューセッツ州ハーバーヒルに建設。その後も「レッドフリース」のライン発表や弱いレディス部門のクリエイティブ・ディレクターにザック・ボーゼンを就任させて強化を図った。2018年には創業200周年を迎え、世界数カ所でランウエイショーとアーカイブ展を公開し、日本でも大きな話題を呼んだ。業界でもアメリカントラッドをベースに変容してゆくブルックス・ブラザーズには期待が寄せられていた。
今回の破産申請には海外店舗は含まれていないが、海外法人であり昨年40周年を迎えたブルックス・ブラザーズ・ジャパンは、米国本社からの出資は60%で、残り40%はダイドーリミッテドが所有する。日本人のアメリカントラッド好きもあり、非常に健全な財務内容となっている。8月末にビルの再開発でクローズする青山本店に代わって、9月4日には表参道店を予定通りオープンさせる。海外約250店舗のうち約80店舗が日本で、世界で2番目の売上を誇る。すでに重衣料はダイドー側にて生産されており、事業継続には安心感はある。事件以前から国内でも10店舗の追加閉店、約60名の退職が発表された。原点に戻りアウトレット売上比率も含め姿勢を正す良い機会にしていただきたい。
米国のブルックス・ブラザーズの買い手候補もすでに数グループあり、約250店を適正な規模に改めれば、再建の可能性は高い。このブランドがアメリカの象徴として蘇ることを熱望する。
まとめ“Crisis brings opportunity.”
夢想と呼べる私見であるが、ブルックス・ブラザーズの敗因のひとつに、メンズの売上が80%を占めていたことが挙げられる。需要が縮小するスーツがその中心であったことも、売上減の最大の要因である。
であるならば、重衣料の市場に弱くポートフォリオとして高級市場が欠けている超優良大企業と組み、世界最高の歴史と現代の素材開発力と最新マーケティング力をひとつにすれば世界で充分戦える。
ニューヨークの旗艦店跡地に出店した企業との日米合作はどうだろうか。過去に検討されたバーニーズやグループ内の現海外ブランドよりはるかに価値とポテンシャルは大きく、新しいビジネススタイルの開発も可能であると著者は考える。
そんな夢を見た真夏の夜であった。
(文=たかぎこういち/タカギ&アソシエイツ代表、東京モード学園講師)