「良いかたちでの上場を目指す」とは、米投資ファンド・サーベラスとの対立が表面化して以降、繰り返し後藤氏が言い続けてきたセリフである。初値が1600円、終値が1770円だったので、とりあえず初値も上場初日の終値も、公募価格の1600を下回るという赤恥をかかずに済んでほっとした、という文脈で語られたセリフではある。
だが、一昨年暮れから始まった、サーベラスと西武HDの対立の経緯経過を考えると、公募価格が当初の仮条件価格であった2300円を大幅に下回ったことも、サーベラスが売り出しを辞退したことも、そのすべてが西武HDの想定内のシナリオ通りであり、それも含めて良いかたちでの上場が果たせたという意味だったのではないかと解釈せざるを得ない。
そもそもなぜ、蜜月関係にあったはずの西武HDとサーベラスが上場申請を目前にして対立することになったのか。それはずばり、上場にあたって既存株主が保有株を売り出す際の公募価格で、見解に著しいズレがあったからだ。サーベラス側は2000円以上を主張し、西武HD側の主張は推定で1200円~1300円。これだけの開きが出た最大の理由は、保有資産の含み益を考慮するかしないかについて見解の相違が生じたためだというのが定説だ。
「IPO価格に含み益を考慮」はありえない
さてここで、本稿の大前提として、なぜか誤解されがちなIPO価格の決定ルールについて改めて整理してみよう。
会社が新規に上場する際に、既存株主が保有株を売り出したり、新たに会社が新株を発行する際の価格をIPO価格といい、価格の決定ルールは厳格に決まっている。
当該企業と同一セクターの上場会社のPER(株価が1株当たりの当期純利益の何倍かを示す倍率)とPBR(株価が1株当たりの純資産の何倍かを示す倍率)の平均値を算出し、それらを新規に上場する当該企業の1株当たり当期純利益と1株当たり純資産に掛け合わせて、大体の金額のゾーンを割り出し、さらにその金額から15%ディスカウントした金額が、その会社のIPO価格のゾーンになる。選択する「同一セクターの会社」は、そのセクター内で飛び抜けて株価が高い会社を1~2社選ぶなどという恣意的な操作は許されず、原則、そのセクターに所属する複数企業のPER、PBRの平均値を使う。すでに上場している会社の平均値と、株式市場ではなんの実績もない会社が同じPERとPBRでよいわけがないから、15%ディスカウントするのだ。
このルールは上場を目指した瞬間から、上場への水先案内人となる主幹事証券から徹底的にたたき込まれるルールなので、株価が高いセクターに分類してもらえるよう、上場を目指す企業は血道を上げる。
例えば、実店舗とインターネット販売の2つのチャネルを持つ小売り企業なら、ネット通販の比率を上げて株価が高いITセクターへ分類されるように努力するし、複数の事業を営む企業であれば、株価が高い企業と同セクターの事業部門の構成比率を数年かけて伸ばす努力もする。それくらい、このIPO価格の決定ルールは常識であり、IPO価格に不動産の含み益を考慮するなどという発想は入り込む余地がない。時々恣意的なIPO価格での上場があると、市場は正直に反応し、初値がIPO価格を下回ったきり株価は下がりっぱなしというしっぺ返しをする。
従って、含み資産をIPO価格に反映させろとサーベラスが主張していたのであれば、そもそも市場参加者にとってはまったく聞くに値しない寝言のような主張でしかなかった。
そしてこの基準で算出すれば、鉄道セクターの西武HDのIPO価格は1200円~1300円程度が妥当な金額で、多少のお目こぼしがあってもせいぜい1400円。実際のIPO価格1600円でもまだ高かったのだから、初値で1600円を割らずに済んだのは、ご祝儀相場のなせるわざといってもいい。
サーベラスが主張していた2000円以上など非現実的だというのは、わざわざ上場申請が通ってから投資家の需要調査をかけるまでもなく、一昨年暮れから当然わかっていたことなのだ。
東証、幹事証券も巻き込んだ茶番劇?
それではこのIPO価格の決定ルールを、西武HDは理解していなかったのか。答えは明かに否である。社長の後藤氏は銀行出身であり、このルールも知らない素人だったということはありえない。後藤氏も西武HDも公式には何一つ発言していないが、1年前はサーベラスの主張するIPO価格が高すぎるとしてサーベラス側と対立していたことは明らかだったし、周辺から漏れ伝わってくる、西武HDが妥当だと考えるIPO価格は、ほぼこのルールに基づく金額と一致していた。
だが、その1年後、西武HDは2300円という仮条件価格で上場申請を行い、東京証券取引所もなぜかそれでよしとし、財務省もこの通りに有価証券届出書に記載することを許した。さらに、主幹事を務めるみずほ証券をはじめとする幹事証券各社は、一体どう考えていたのかという疑問も湧く。幹事証券各社は売出人から西武HD株を買い取って公募に応募した投資家に転売する。投資家にはめ込み切れずに売れ残った株は自社で抱えることになり、さりとてそのまま塩漬けにして抱え続けることもリスク管理上許されない。ゆえに上場後すぐに損切り売却を余儀なくされる。2300円で投資家に売却できないことは、証券会社自身が1年前からわかっていたはずだし、IPO価格は2300円では決まらないことも想定内だったことは明らかだ。
つまりは、どうしてもIPO価格の決定ルールを理解しないサーベラスに、IPO価格の決定ルールを理解させる役割を、市場に丸投げしたとしか考えられない。だから「需要調査をしてみたら、2300円で買う投資家はいませんでした」という、結論がわかりきっている茶番劇を、西武HD、東証、幹事証券各社が相乗りで演じてみせたと考えなければ、辻褄が合わない。
さらにいえば、売り出し株式の供出に応じたシティグループ、UBS証券、農林中央金庫、日本政策投資銀行も共演者だろう。この4社の供出株だけでも上場が可能な株数を確保できていた、つまり、サーベラスが売り出しを辞退しても上場が可能な株数を確保しておいたということが何よりの証拠だ。
ちなみに、なぜサーベラスがIPO価格決定ルールをこうまで頑なに理解しなかったのかという疑問は残る。あおぞら銀行のIPOの際は、サーベラスの取得価格があまりにも安すぎて、このルールでの算出価格でも十分想定以上の利益が出たから、ルール自体を理解する必要がなく学習の機会を逸したと考えるしかない。
サーベラスが売り出し辞退を後悔する日
今回、サーベラスは1600円での売り出しを辞退したが、これが果たして後々サーベラスにとって良い結果を生むのかどうかは極めて疑問だ。何しろ西武HD株は上場してしまったのだ。市場がこの会社に付ける評価の額が、逐次わかる会社になってしまった。
そもそも今回売り出された株式は、発行済みの8%程度でしかない。サーベラスはロックアップ契約を幹事証券会社との間で結んでいるので、上場から6カ月間は保有株を売却できない。6カ月後、めでたく市場価格が2000円になっていたとしても、もともと安定株主が多い西武HD株で、流通株数が劇的に増加するというのは考えにくい。ただでさえ少ない流通株数の中で35%もの株式を、市場価格を暴落させずに売り切ることはかなり難しいにもかかわらず、サーベラスは、1600円で間違いなく15%相当もの株数をまとめ売りできる、またとない機会を自ら封じてしまった。
平成バブルのような神風でも吹かない限り、2000円という株価自体も西武HDにとっては高いハードルだ。西武HDの15年3月期通期の1株純益予想は、14年3月期予想の47円81銭の1.67倍である79円91銭。予想PERで25倍以上が付けば2000円を超えるが、実績PERなら41倍を超える必要がある。鉄道セクターで予想PER25倍超えは京急、小田急、京王などに限られ、実績PER41倍以上となると京急しかない。機関投資家は西武HDという会社にフォーカスするのではなく、鉄道セクターで割安な銘柄という発想で投資対象を選択するが、PERがこのレベルの会社を果たして割安だと思うのか。
さらに、市場は投資先を選定する際、会社の含み資産をほとんど評価しない。いくら優良資産を持っていても、その資産を収益に結びつける開発力の有無を市場は見る。だからこそ2兆円もの含み益を持つ三菱地所ですら予想PERは55倍だし、9200億円の含み益を持ち、開発力の高さでは群を抜く三井不動産のPERですら40倍強だ。
サーベラスの取得単価はおよそ1000円なので、含み損を抱える展開にはならないだろうが、1600円でのまとめ売りというまたとない機会を逃したことを後悔する日が来る可能性は否定できない。
「良いかたちでの上場」の真意とは
一方、西武HDにとって、サーベラスの持ち株比率が減らないことも想定内だったと思われる。確かに35.5%という比率は微妙だ。議決権行使割合が8割弱程度にとどまると、この持ち株比率でも過半数近くになる。だが、昨年の株主総会で与党株主の結束の強さに西武HDは自信を持ったはずだ。今回の売り出しで与党株主の持ち株比率は減るが、“モノ言う”外国人投資家も取締役報酬の個別開示などには諸手を挙げて賛同するが、経営陣の入れ替えとなるとなかなか賛同しない。
高輪の再開発が本格化する時期まで持ちこたえれば、西武HD自身が開発資金調達のために多額の公募増資を実施するだろうから、増資の規模次第ではサーベラスの持ち株比率は薄まる。もっとも、監督官庁の厳しい監督下にある鉄道会社経営のノウハウがまったくないサーベラスが、企業価値が上がらないことを理由にして本気で経営陣の入れ替えに動く覚悟があるのかどうかは疑問だし、あったとしても理解を示す株主は少数だろう。よって西武HDは、サーベラスの持ち株比率は危うい比率ではあるけれど、辛うじて総会で5割超の賛成票を取られないで済む範囲と考えているのではないか。
そうなると、前出の「良いかたちでの上場」とは、「含み資産を考慮する」などというルール破りを受け入れることなく、若干高めとはいえ市場のルールに従った常識的な範囲の価格にIPO価格が決まり、初値も初日の終値もそのIPO価格を割らずに済んだという意味ではないのか。さらには、サーベラスが利益確定の機会を逸したとしても、それは同社の自業自得という意味も含まれているのではないのか。
前出の会見ではサーベラスとの良好な関係を強調した後藤氏だが、現西武HD経営陣は当面、高い緊張度に晒される状況に置かれ続けることは間違いないだろう。
(文=伊藤歩/金融ジャーナリスト)