中村氏は受賞後の会見で日亜化学に対する好悪相半ばする感情を吐露した。感謝したい人物の筆頭として、中村氏が同社在籍中に青色LED研究への投資を決断した同社創業者、小川信雄氏(故人)の名前を挙げ、「私が開発したいという提案を5秒で決断し、支援してくれた。私が知る最高のベンチャー投資家だ。小川社長に500万ドル必要だと言うと、彼はそれもオーケーだと言った」と語った。
その一方で、「研究の原動力はアンガー(怒り)だ」と日亜化学に対する憎しみを隠さなかった。発明特許を会社が独占し、中村氏へは発明の対価として「ボーナス程度」の2万円しか支払われなかった。中村氏は退職後も技術情報を日亜化学のライバル企業に流出させたとして同社から訴訟を起こされ、「さらに怒りを募らせた」と明かした。
この日亜化学は、未上場企業のため世間的にはあまり知られていない。創業者の小川信雄氏(1912年7月9日-2002年9月6日)は、旧制徳島高等工業学校製薬化学科(現・徳島大学薬学部)卒。太平洋戦争の南方戦線で軍医直属の薬務員だった時に、米国製の蛍光管を目の当たりにし、今後伸びる製品だと確信。56年12月、徳島県阿南市に蛍光管製造の日亜化学を設立した。
その日亜化学に中村氏が入社したのは79年。中村氏は入社から8年過ぎた87年、辞職覚悟で当時社長を務めていた前出の小川氏に直訴し、不可能といわれていた青色LEDの開発許可を求めた。中村氏の「異能・異才」を日亜化学の中で唯一評価していた小川氏は、「オーケー。やっていい」と即答。「開発費はいくらかかる?」との質問に「500万ドルが必要だ」と答える中村氏に対し、「ええわ、やれ」と一言で返答したという。当時、為替レートは急激な円高が進んでおり、500万ドルは8億円に相当する。中小企業の日亜化学には大変な金額だ。これにより500万ドルの研究費支出と米国留学が認められ、青色LEDが日の目を見ることになる。
●会社の命令を無視して開発に成功
89年3月、中村氏の最大の後ろ盾である小川氏が不治の病に倒れ、娘婿の英治氏が2代目社長に就任した。社長交代をめぐり「週刊現代」(講談社/04年5月22日号)は次のように報じている。
「脳萎縮によって意識障害があった信雄社長の車イスをAさん(占い師)が押して、会社にやってきた。Aさんが『会議をする!』といい、幹部が集められた。『次期社長は婿養子の英治であり、みなが婿養子の指示に従い、会社を盛り立てることを望む』」