この方針に基づき竹中金融相が速やかに銀行免許を与えたのが日本振興銀行だった。03年8月、金融庁顧問を辞任した木村は日本振興銀行設立を発表した。その2カ月後の10月に銀行予備免許を、04年4月に本免許を取得した。超スピードで銀行免許が下り、木村は紆余曲折はあったが、日本振興銀行のオーナーの座に収まった。イトーヨーカ堂(現・セブン&i)グループのアイワイバンク(現・セブン銀行)やソニーグループのソニー銀行は01年に開業しているが、日本のトップ企業といわれる両社でさえ、子会社の銀行設立には申請してから銀行免許が下りるまで1年5カ月かかっている。ところが振興銀は、わずか8カ月で銀行免許を得ている。当時、竹中平蔵・金融相は「消費者の利便性が高まれば社会的なインパクトは大きい」との歓迎のコメントを出している。
木村は竹中プランに関与した当初から、日本振興銀行設立の青写真を描いていたのではないか。木村は盟友の竹中平蔵氏を通じて銀行利権を手に入れた。政策立案者が絶対にやってはいけない禁じ手を何故、使ったのか。
大手銀行の幹部は「木村さんは平成の渋沢栄一になりたかったのではないか」という。渋沢栄一は、株式会社の生みの親として知られる明治期の財界のリーダーである。
幕府の遣欧使節の一員として渡欧した渋沢は明治新政府の招きで大蔵官吏に登用された。官僚・渋沢の最大の仕事は、わが国最初の銀行となった第一国立銀行を創設したことだ。銀行業務にまず手を挙げたのが三井組で、兜町に錦絵にまでなった洋風五層楼の三井組ハウスを建て三井銀行の本店とする計画だった。
西洋で経済制度を見聞してきた渋沢は合本主義(株式会社)を根付かせたいと考えていた。銀行の許認可権を握る渋沢は、三井家の独占に反対。株式を公募して第一国立銀行を設立した。渋沢は美しく仕上がった三井組ハウスを第一国立銀行の本店に使いたいからと言って取り上げた。
退官した渋沢は第一国立銀行(みずほフィナンシャルグループの前身)の頭取に就任した。同行を拠点に、王子製紙、大阪紡績、東京海上、東京ガス、帝国ホテルをはじめ500社以上の株式会社の設立に関わり「日本の資本主義の父」と呼ばれた。
木村は日本振興銀行の創立メンバーを、明治維新のマグマとなった志士になぞらえて「金融維新の志士」と名付けた。
「渋沢栄一は官吏としてつくった第一国立銀行を手に入れた。木村さんはこれを模倣したかったのだろう。(振興銀行を)渋沢さんのように新しいビジネスを創出する総本山にしたかったのではないのか。中小企業振興ネットワークを拡大して、2020年には資金量20兆円にすると本気で考えていた」(前出の銀行幹部)