柴咲コウが主演するNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の最終回が17日に放送された。平均視聴率は12.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)で、全話を通じた期間平均視聴率は歴代ワースト3位の12.8%となった。
龍雲丸(柳楽優弥)と別れた直虎(柴咲)は井伊谷に帰還するが、労咳を発症して床に伏せってしまう。夢うつつで聞こえてきた笛の音に引かれて井戸端に行くと、子どもの姿になった直親・政次・龍雲丸が待っていた。3人は直虎を「この先」へ連れて行くのだという。いつの間にか子どもの姿に戻った直虎は、満面の笑みで「いざ!」と井戸をのぞき込む。昊天(小松和重)が気付いた時には、直虎は笑顔のまま井戸端で息を引き取っていた。
知らせを聞いた万千代(菅田将暉)は意気消沈するが、「直虎が井伊谷でやり遂げたことを日の本で成し遂げよ」と南渓(小林薫)に諭され、北条との和平交渉という難しい役目を買って出る。万千代は北条との和平を有利に進め、その功績が認められて多くの家臣を与えられた。元服して直政と名を改めた万千代は井伊の赤鬼と恐れられる武将に成長し、その後の井伊家は260年にわたって徳川家を支えた――という展開だった。
最終回としてはうまくまとめられていたと思う。元気そうに見えた直虎が急に咳をし始めたかと思ったら、あっという間に死んでしまう展開には驚いたが、南渓の言葉を借りれば「もう良いと皆が迎えに来た」という設定のおかげで、“無理やり感”はだいぶ薄れた。まだやらねばならぬことがあるから死んでなどいられない、と駄々をこねる直虎が少女時代の姿だったのも良い演出だった。猪突猛進型だった少女が、さまざまな経験を通して思慮深くなったとはいえ、本質の性格はあの日のままだったのだ、と胸が熱くなった。裏を返すと、直情型の人であっても、それを抑えに抑えて慎重に行動しなければ生き残れなかったのが戦国時代だった――というメッセージとも受け取れる。
このドラマ全体を貫くテーマは、子どもに戻った直親の台詞にまとめられていた。まだ生きてやらねばならぬことがあると訴える直虎に、直親はこう語った。
「おとわが俺の志を継いでくれたように、次は誰かがおとわの志を継いでくれる」
つまり、『おんな城主 直虎』は、単なる井伊直虎の一代記ではなかった。女性領主として戦国を生き抜いた稀代の人物に焦点を当てたかのように見せかけて、実は連綿と受け継がれる人々の思いを描くものだったのだろう。その営みの中で、ある時期に主役となったのが直虎であり、次にそれを引き継いだのが直政だったのだ。
本作は終盤以降で万千代が実質的な主役のようになり、「おもしろくなった」とする声が多かった一方で、「直虎の影が薄い」「直虎の存在意義がわからない」と批判もあった。筆者も、もう少し万千代の登場時期を早めて直虎・直政の二代記にしたほうが良かったのではないかとずっと思っていた。だが、「志が受け継がれる」ことがテーマであったとすれば、直政が本格的に活躍するのを描かぬまま、「きっとこの直政なら直虎の意志を継いでくれるはず」と視聴者に思わせたところで終わるのも悪くない。
信長の遺品とされる茶碗が龍潭寺に現存することと、龍潭寺四世住職の悦岫(えっしゅう)が信長の子だとする伝承を巧みに取り入れ、光秀の遺児・自然(田中レイ)が「信長の子」という名目で龍潭寺にかくまわれ、僧となったとする脚本も良いフィクションのお手本のようだった。直親・直政が親子2代にわたって寺にかくまわれて命を長らえたという事実を下敷きとしつつ、血を流す争いをいかにして避けるかに知恵を絞ってきた直虎の最後の活躍を描き切った。「あいにく子を持ったことはないもので、どの子も等しく我が子のように見えましてなあ」と言い切った直虎の言葉にしびれた視聴者も少なくなかったことだろう。
不満がまったくないわけではないが、少なくとも脚本家が描きたかったことはきれいに描き切った大河ドラマであったと思う。戦をしたらすぐに滅びてしまう程度の弱小国主を主役に据えた点や、「スイーツ大河」と揶揄されがちだった女性主人公の大河ドラマに新機軸を示したことなど、大河ドラマの歴史において記憶されるべき作品だったといえる。視聴率は振るわなかったが、今後の大河ドラマに少なからず影響を与えていく作品になりうるのではないだろうか。
(文=吉川織部/ドラマウォッチャー)