鈴木亮平が主演を務めるNHK大河ドラマ『西郷どん』の第15回が22日に放送され、平均視聴率は前回から1.5ポイント増の13.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だったことがわかった。
視聴率が回復したのは朗報だが、内容が伴っていたかといえば、非常に厳しいと言わざるを得ない。先週に続いて、歴史上の大きな出来事が次から次へと起こり、どんどん物事が動いていくのはいい。だが、それにかかわる人々の人物像や事象の背景に関する描写が薄っぺらいため、思考の過程や物事の流れが大変わかりにくい。言い換えれば、「この人は何を考えて、そう行動したのか」「なぜそうなったのか」がさっぱりわからないまま、いくつものエピソードがぶつ切りで描かれ、ストーリーが進んでいくのだ。
視聴者にとってもっともわけがわからなかったのは、次期将軍の座をめぐる争いで敗れ、意気消沈する島津斉彬(渡辺謙)に、西郷吉之助(鈴木)が秘策を上申した場面だろう。井伊直弼(佐野史郎)を相手に仕掛けた一世一代の大勝負が完敗に終わったことで、吉之助自身も当初はひどく落ち込んでいた。だが、大久保正助(瑛太)に「ひとつやふたつの策が破れたからといって、引き下がる男ではないだろう」と叱咤され、ものすごい秘策を思いついてしまう。そして、それを斉彬に提案するのだが、その内容がひどい。
いきなり、「兵を率いて京に向かってはどうか」というのがその内容である。京で武力を誇示して朝廷に圧力を掛け、あらためて天皇から詔書を出してもらおうというのだ。テレビの前で、「こいつは突然何を言い出すのだろう」と、頭の中が疑問でいっぱいになってしまった。
一応ことわっておくが、時系列は前後するものの、斉彬が軍を率いて上洛しようと計画していたこと自体は事実だ。また、西郷隆盛を主人公としたドラマである以上、その発案者を西郷にするのも、許される範囲の改変だとは思う。
だが、視聴者が見ていた先週までの吉之助は、こんなことを言いだす男ではなかった。曲がったことが大嫌いでひたすら単純な、よく言えば純朴、悪く言えば少々バカなところのある男だったはずだ。政治そのものや特定の思想に興味があったふうにも見えなかった。そもそも、そうした描写は一切なかった。それなのに、目的のためなら手段を選ばない策謀家みたいなことを急に言い出すものだから、違和感満載である。策略家としての覚醒をここで描きたかったのなら、もう少し前から伏線を描いておくべきだろう。
本作では、「伏線を張らない・回収しない」例はほかにも見られた。ここでは2つだけ例を挙げる。そのひとつは、一橋慶喜(松田翔太)の扱い方だ。前回ラストで「オレが将軍になろう」と井伊直弼の前でタンカを切っていたのに、今週は一切出番なし。結局、口で言っただけで何もせず、その間に直弼が汚い手で紀州藩主の慶福を将軍跡継ぎに決めてしまった。
そもそも、慶喜はその英邁さゆえに将軍候補として推されたはずなのに、このドラマの慶喜といえば旅籠で飯盛女と酒を飲んで戯れるばかり。権力闘争に巻き込まれないために“うつけ”を装うのもわかるが、本当は賢いという描写も少しはないと、斉彬らが将軍候補として担いだことに説得力が生まれない。
朝廷とのパイプを持つ僧侶・月照(尾上菊之助)についても、あまりにも伏線の張り方が足りない。吉之助は、ほどなくして月照と心中を試みることになる。だが、ここまでの登場を見る限り、この2人の接点はあまりにも少ない。心に通じ合うものをお互いに感じたという描写もない。
こんな調子で「流れ」というものが描かれていないから、すべてが行き当たりばったりに見えてしまう。これでは、幕末の動乱から明治維新にかけての激動期などとても描き切れないのではないだろうか。脚本家を交代しろとまではいわないが、全体のプロットを考える役割の人を据えたほうがいいのではないだろうか。
(文=吉川織部/ドラマウォッチャー)