石原さとみ主演の連続テレビドラマ『高嶺の花』(日本テレビ系)の第8話が29日に放送され、視聴率は前回から0.6ポイント減の9.3%(関東地区平均、ビデオリサーチ調べ)だったことがわかった。野島伸司氏が脚本を手がける同ドラマは、華道の名門・月島家に生まれ、圧倒的な才能と美貌を兼ね備えた月島もも(石原)と、お金も地位もない自転車店主・風間直人(峯田和伸)が繰り広げる「怒濤の純愛エンターテインメント」という触れ込みだ。
だが、実際にはももと直人の恋愛ストーリーは脇に追いやられている。むしろ、月島家内部のドロドロとした争いと、わけのわからない芸術理論に振り回される華道家たちの苦悩ばかりが描かれてきた。恋愛ドラマを期待していた視聴者はすでにほぼ脱落してしまい、もはや「わけのわからない話にどう収拾をつけるのか」への興味だけで視聴を継続する人しか残っていないような印象を受ける。
第8話は、ともに次期家元候補であるももとなな(芳根京子)のどちらが選ばれるのかが焦点となった。新興の華道家・宇都宮龍一(千葉雄大)と交際しているななは、実母のルリ子(戸田菜穂)が龍一と肉体関係にあったことへの怒りや憎しみを花にぶつけ、美しさに欠ける攻撃的な作品をつくる。一方、ももは王道の作品をそつなくつくり上げた。
両者の作品を見た家元(小日向文世)は、ななの作品が優れているとして彼女を次期家元に指名。母の遺志を果たせなかったと悔やむももは、別流派の家元候補・神宮兵馬(大貫勇輔)に抱かれることで直人との思い出を消し去ろうと決意する。愛のない相手に抱かれれば、華道家に必要な「もう一人の自分」が現れるというのだ。だが、ももは兵馬に抱かれる寸前で気絶してしまい、駆け付けた直人に助け出される――という展開だった。
第8話まで進んだことで、ようやくこのドラマのテーマらしきものが提示され始めた。なかでも、兵馬がももに対して「高嶺の花であるべき」と説いた場面はなかなか興味深かった。彼によれば、ももが華道家としての本来の技量を取り戻すためには、誰もいない場所で孤独に咲く覚悟が必要であり、地上に降りてきて恋をしてはいけないのだという。
とはいえ、ラスト近くで「兵馬の言い分は信用できない」との種明かしがあったため、この言葉をどの程度信じてよいのかは不明だ。そうではあっても、ドラマタイトルでもある「高嶺の花」という言葉が、芸術家として目指すべき立場の比喩だった、という仕掛けは少しおもしろい。当初予想されていたような、直人とももの家柄などの格差を指した言葉ではなかった、というわけだ。
このドラマには当初から、石原さとみがお嬢様らしくないという意味で「高嶺の花に見えない」という批判が付きまとった。だが、兵馬の言うことが事実であるとすれば、そもそも石原演じるももは、華道家としてまだ高嶺の花ではない、ということになる。
なんだか、このドラマの芸術論に付き合わされてやたらと理屈っぽくなってしまった。要は、ドラマのタイトル自体に視聴者を引っかけるような仕掛けがあったらしい、という話だと思ってもらいたい。
ただ、最後まで「芸術家は孤高であるべき」という理屈でこのドラマが進むとしたら、それはもはや恋愛ドラマではない。となると必然的に、「そんな理論はデタラメで、私生活が充実していても芸術家として大成できる」という展開にならないとおかしい。つまり、順当にいけば、最後には石原演じるももが幸せになり、なおかつ華道家としても成功するという結末になるはずだ。
それらしき予兆も描かれた。華道の本を読んだ直人は「もう一人の自分」の正体が子どもの頃の自分であることに気付く。そして、成長とともに消えるのが自然であって、一度消えたら二度と現れないはずだ、と兵馬に告げた。兵馬がうろたえていたところを見ると、この推理は当たっているらしい。であれば、直人が間もなく「もう一人の自分を取り戻さなければ」との呪縛にとらわれているももを解き放つのは間違いない。この理論によれば「もう一人の自分」など見えなくていいし、見えないほうが真っ当な人間だからだ。
ずっと、意味がわからないと思いつつ視聴してきたが、もし「芸術家とはこうあるべき」との呪縛にとらわれている美女を、一見冴えない男性が救い出す――というテーマなのだとすれば、実は非常にシンプルなドラマなのかもしれない。
(文=吉川織部/ドラマウォッチャー)