鈴木亮平が主演を務めるNHK大河ドラマ『西郷どん』の第45回「西郷立つ」が2日に放送され、平均視聴率は前回から0.9ポイント減の11.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だった。終盤での1ポイント近い急落には、人気番組『M-1グランプリ2018』(テレビ朝日系)が裏で放送されていたことも関係していると思われる。
「西郷立つ」とサブタイトルでうたった通り、第45回は西郷隆盛(鈴木)が後に西南戦争と呼ばれる戦いを起こすまでのいきさつを描いた。明治政府は、帯刀を禁じる「廃刀令」や士族の禄を廃止する「秩禄処分」といった改革を次々と打ち出し、それと呼応するように全国で士族の不満が高まっていた。西郷が鹿児島に設立した私学校に集う生徒たちも暴発寸前となっていたが、西郷はなんとかそれを抑え込んでいた。
ところが、政府が遣わした密偵が私学校に潜り込んでいたことが判明。いきり立った生徒たちは政府の火薬庫を襲撃し、密偵を拷問して政府が西郷を暗殺しようとしていることを知る。事態を把握した西郷は、ついに自らが立つことを決意し、「東京に行って政府を問いただす」として、武装した兵とともに鹿児島を発った――という展開だった。
おおむね史実に沿った展開であり、「西郷は不平士族たちを必ず抑え込んでくれる」と信じる東京の大久保利通(瑛太)と、暴発寸前の生徒たちに乗せられていく西郷の姿とを対比して描く構成も良かった。だが、視聴者からは「肝心な部分でお茶を濁した」との批判もかなり上がっている。つまり、西郷がなぜ決起したのか、その理由がはっきりと描かれていないというのだ。
一応、劇中では、拷問された密偵が「ボウズヲシサツセヨ」との指令を政府から受けていたと白状したことになっていた。これ自体は、現在の定説に近い。西郷は、「シサツ」は本当に「刺殺」を意味するのかと密偵に問うたが、答えは返ってこなかった。これを西郷がどう解釈したのかはわからない。だが、「ああ、よかよか」とそれ以上詰問せず、いきり立つ生徒たちに「みんなで東京に行き、まつりごとのあり方を問いただす」と宣言した。「お茶を濁した」と視聴者が感じたのは、この部分だ。
まず、西郷が政府ないしは大久保に命を狙われていると本気で思ったのか、そうでないのかがぼかされている。仮に本気で思ったとしたなら、大勢の兵を率いて東京を目指すのはおかしい。西郷はこれまで、「大勢で行けば相手を警戒させ、戦争になる」と主張し、単身で交渉に行くことを得意としてきたからだ。これまでの西郷なら、「自分の命ひとつで解決できるなら、いくらでも政府にくれてやる」と言ったはずだ。過去の言動と大いに矛盾していることになる。一方、この時に「政府は自分を殺そうとなどしていない」と直感したのなら、この機に兵を率いて東京に上る必然性が薄い。いずれにしても、西郷の行動にあまり説明がつかないのである。
もちろん、西郷が私学校の生徒らを率いて東京を目指したのは史実である。だが、ドラマである以上、史実を解釈して登場人物の行動に理由づけをする責任があるはずだ。いくら温厚な西郷でも暗殺は許せなかったのか、本気で政府を問いただそうとしたのか、あるいは「盟友である大久保が死ねというなら、不平士族もろとも、この世から消え去ることで彼の役に立とう」と考えたのか。そのどれでもいいから、大河ドラマ『西郷どん』としての解釈を示してほしかった。
ところが、このドラマは、終盤の肝心なところで西郷の心情を解釈することを放棄した。ご丁寧にも、西郷菊次郎役の西田敏行による「この時の私には、父・西郷がどんな思いを巡らせていたのか、わかりませんでした」というナレーションまで付けて。「解釈をひとつに定めず、いろいろな可能性を残して視聴者に委ねた」というつもりなのかもしれないが、はっきり言ってこれは「逃げ」である。せっかく明治編に入ってからは重厚で見ごたえのあるドラマをつくっていると思っていたのに、台無しだ。せめて残りあと2話、登場人物たちの心情がきっちり描かれていることを願う。
(文=吉川織部/ドラマウォッチャー)