新型コロナウイルスのワクチン接種が世界115カ国・地域で始まっている(3月11日時点)。昨年12月上旬の英国を皮切りに世界各国での接種が本格化し、累計接種回数は3億を超えたが、各国ごとの接種状況にばらつきがあることから、世界各地で対立の火種となるとの懸念が生じ始めている。
世界で最もワクチン接種が進んでいるのはイスラエルである(人口100人当たりの接種回数は99.1)。3月7日付ブルームバーグは「イスラエルは今年4月に人口の75%が2回のワクチン接種を終えることから、世界で初めて集団免疫を獲得する国になる」と予測している。
国内でのワクチン接種に目途が立ったことから、イスラエル政府は「余剰分のワクチンを諸外国に提供する」との方針を打ち出した。その内訳を見てみると、チェコ、ハンガリー、グアテマラ、ホンジュラスなどが含まれているが、これらの国々は大使館をエルサレムに移転させることに前向きである。イスラエルが「ワクチン外交」で大使館のエルサレム移転を後押しようとしていることについて、パレスチナは自国へのワクチン提供をないがしろにしているイスラエルの姿勢に反発していることはいうまでもない。
イスラエルとは対照的に域内でのワクチン接種が事前の予想通り進んでいないのがEUである。人口100人当たりの接種回数はポーランドの10.8が最高であり、ドイツは9.8、フランスは8.9にとどまっている。ワクチン接種が進まない現状について3月9日付ブルームバーグは「EU域内から最大1000億ユーロ(約13兆円)」の資金が流出する恐れがある」と報じている。
EUは1月下旬、「ワクチン製造業者が当初合意していた加盟27カ国に対する供給量を満たさない場合には、EU域外へのワクチン輸出を停止する」方針を明らかにしていたが、イタリア政府は3月4日、自国で製造された英アストラゼネカ製ワクチン約25万回分の豪州への輸出を差し止めた。その理由は「豪州は新型コロナウイルスの影響を受けやすい脆弱な国のリストに含まれていない」というものである。
EUのミシェル大統領は9日、「EUは新型コロナウイルスワクチンの輸出を止めていない」と述べ、EUに対する「ワクチンナショナリズム」との非難を否定するとともに、「ロシアや中国が新型コロナウイルスワクチンを自国の宣伝活動に利用している」と批判した。
ロシアの「スプートニクV」
日本ではあまり知られていないが、世界で2番目に多くの国で承認されているワクチンは、ロシアの「スプートニクV」である(48カ国)。ワクチン不足を解消するため、イタリアでスプートニクVの接種が6月から開始されるとの動きが出ていることから、欧州医薬品庁(EMA)は4日、スプートニクVの審査を開始したが、その矢先の7日、EMAの幹部はEU加盟国に対し、「効果を示す十分なデータが得られていないとしてスプートニクVの緊急使用を控えるよう」呼びかけた。
この異例ともいえる呼びかけに対し、ロシア側はEMAの中立性に疑義を呈し、公式な謝罪を要求した。その後ドイツの専門家委員会のトップがスプートニクVを支持する姿勢を示す展開になっているが、ロシアに対するEUの温度差が改めて浮き彫りになったといえよう。
米国ではロシアに対する根強い不信感からか、「ロシア諜報機関が国内で使用されている新型コロナウイルスワクチンに関する偽情報を拡散している」との批判が強まっている。
ロシアはスプートニクVの生産を中国で行う意向を示すなど、その蜜月ぶりをアピールしているが、両国は水面下では激しく競争している。カザフスタンやトルクメニスタンなど中央アジア諸国では中国との争いを制してスプートニクVの導入に成功し、現在、ワクチン接種が遅れているバルカン半島諸国で激しくしのぎを削っているといわれている。
「ワクチンパスポート」
ワクチンの売り込みでロシアの後塵を拝している中国だが、巻き返しの手段を打ち出している。中国政府は9日、海外への渡航者向けに新型コロナウイルスワクチンの接種を証明する「ワクチンパスポート」の発行を世界で初めて開始した。その目的について「PCR検査やワクチン接種などの情報の相互確認を実現し、人々の安全で秩序ある交流に貢献すること」と説明している(中国の人口100人当たりの接種回数は3.7)。
ワクチンパスポートについては、EUが中国に先行して議論を開始していたが、世界保健機関(WHO)はワクチンパスポートについて反対の立場を示している。ワクチンの免疫力がどれほど持続できるかについての確実な情報がなく、世界的にワクチン接種が十分に行われていない現状にかんがみ、時期尚早であるというのがその根拠である。
中国はどの国と交渉しているかについては明らかにしていないが、「各国の中国同胞にワクチンを提供する」としており、コロナ禍で停滞する人の流れをワクチンパスポートで活性化することにより、「大中華圏」を構築しようと目論んでいる可能性がある。
中国のワクチン外交は「ソフトパワー」にとどまらないことも気かがりである。中国企業が台湾のワクチン確保を妨害する事案が2月中旬に起きており、今後も露骨な外交圧力の手段として利用されるのではないだろうか。
日本、米国、豪州、インドの4カ国首脳会談が12日に初めて開催されるが、「インドのワクチン生産能力を活用して、途上国にワクチンを供与する新たな枠組みを創設する」ことが主要議題の一つとなっている。会議の場で日本、米国、豪州はインドのワクチン生産拡大に資金支援を表明するとされているが、この動きに対して中国側は「ワクチンにナショナリズムを持ち込むことに反対する」との立場を示している。
このようにワクチンをめぐる国際的な対立が強まりつつあるが、かつてのワクチン大国だった日本の存在感がかつてなく小さくなってしまっていることは残念でならない。
(文=藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー)