金融界の救世主・木村剛、銀行破綻と逮捕の深層を関係者が告白
ー木村剛「天、我に味方せず」
(講談社/有森隆)
銀行法違反で逮捕された木村剛元会長は、85年に日本銀行へ入行し、企画局や国際局などのエリートコースを歩むも、98年に同行を退職し、金融コンサルティング会社を設立した。
また、小泉政権では、経済財政政策担当大臣だった竹中平蔵氏から、わずか5名の有識者から成る「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」に大抜擢され、金融再生プログラムをまとめ上げた。りそな銀行の実質国有化を筆頭に、銀行の不良債権処理を劇的に進行させるなど、多大な成果を残して名声を手にした。
そして03年、「中小企業振興」を旗印とする日本振興銀行を設立するが、赤字決算や取締役の相次ぐ解任をはじめとする内部のゴタゴタが続き、10年、ついに金融庁が検査忌避を告発。木村氏も逮捕・起訴され、今年3月に有罪が確定している。
木村氏をめぐっては、怪しい人脈を指摘されたり、毀誉褒貶は激しく、なかなか素顔が見えないが、実際はどんな人物なのか?
振興銀開業当時からの取引先に勤めるA氏に、木村氏の素顔を聞いた。
――木村氏の印象について、一言で言うと、どのような人物でしょうか?
A氏 銀行マンというよりビジネスマン。仕事の鬼ですね。
――具体的には、何かエピソードはありますか?
A氏 振興銀の社員が、その日どうしても木村さんに見てもらわなければいけない、200ページ以上の書類があった時の話です。社員が夜12時くらいまで木村さんを待っていると、木村さんは飲み会から酔っぱらって戻ってきました。その社員は翌日までに決裁が必要であることを説明すると「わかった、わかった」と受け取りました。彼は大丈夫かなあと思って翌朝7時に出社すると、その書類はすべて手直しも入った状態で置いてあったといいます。木村さんは、いつも移動中の車の中ではずっと黙って資料を読み込んでいる人だったそうです。
――Aさんは、木村氏とお酒の席を共にしたこともあるとか……。
A氏 木村さんはお酒飲んでカラオケにも行くし、そういう時はフレンドリーですね。元日銀マンという金融の第一線で仕事をしていたわりには、インテリ臭がなかった。六本木に事務所を構えている外資系ビジネスマンのような嫌みはなく、気さくな人でしたよ。
――あるノンフィクションには、「一等地にオフィスを構え、内装にお金をかけたのは木村氏のものすごい希望」と書いてありましたが、お金の使い方はいかがですか?
A氏 確かに、オフィスや内装など仕事に何かしらつながるところはお金をかけるんだけど、必要じゃないものにはお金をかけない主義みたいです。ファッションにはさほど気を使わないし、食事にお金をかけているふうでもなかった。飲みに行くのも、仕事につながりそうだからじゃないでしょうか。
起業後、間もなく訪れた試練
――仕事に関する話を木村氏とされたことはありますか?
A氏 「中小企業を相手にしているし、お金を貸すのは甘くないんだよ」と、しみじみ話していたのを覚えています。わかりやすい例え話として、3人に年利30%で100万円ずつ貸したとして、年間90万円の儲けです。しかし、このうち1社がデフォルトしたら、100万円が消えてしまう。リスクは低くないと言っていました。
それから、木村さんがアメリカのKPMGに持ちかけて、100%子会社としてKPMGフィナンシャルサービスコンサルティングを立ち上げた時の話です。本社から来た人は、仕事はあんまりしないのに給与は高かったり、勝手に一等地に家賃の高いオフィスを構えたり、高いブランド料をKPMGに支払わされたりで、にっちもさっちもいかなくなった上に、売上もなかなか上がらず、1年たたずして当初の資金が尽きました。
しかし、事業を継続したいからもっと資金を出してほしいと本社の社長に掛け合ったところ、「貸してやるから、その2割は私にバックを」と言われたとか。要するにその社長は、私腹を肥やそうしていたわけですね。木村さんは、これはダメだと思って、KPMGアメリカとの関係を切ったと言ってました。
――木村氏は日銀出身ですが、融資の実務を知らなかったのではないかといわれています。
A氏 現場レベルでも、融資のエキスパートは、それほどいなかったのではないでしょうか。木村さん自身には「中小企業を元気にしたい」という気持ちはあったはず。信用金庫みたいに中小企業と信頼関係をつくろうとして、初めの頃は融資先に小まめにあいさつに行っていました。お金は顧客の経営上の数字だけでは貸せないということは、理解していたと思います。
予想以上だった実務の難しさ
――よほど融資先の経営に細かくタッチしていかないと、中小企業への与信管理は難しいのが現実です。顧客を大切にしていたはずの木村氏が、融資を増やすためにノンバンクから債権をそのまま買い取る手法を拡大させました。
A氏 いざ銀行業をやってみると、中小への融資は思ったよりリスクが高いと気づいたのでしょう。時間をかけて少しずつ会社を成長させるというのは、アメリカのビジネスのあり方を見てきた木村氏にとって、ビジネスの時間軸から外れているように見えたのでしょう。IT企業を中心としたヒルズ族は、数年で会社を何倍もの規模にしていますし、木村さんは銀行業でそれをやろうとしていたのだろうし、実際、短期間で急成長してしまった。振興銀の社内には、一時期「20○○年にりそな銀行を抜く」というスローガンの書いたポスターが貼ってありましたね。
――拡大路線で失敗した、典型的な例のようにも見えます。
A氏 メディアにも興味があったようです。出版事業を拡大して、自身の著者や「Financial Japan」という月刊経済誌を出していましたが、内情は火の車だったようです。最初は編集にも熱心だったようですが、途中でほとんどノータッチになりました。また、経済紙の「フジサンケイビジネスアイ」やTOKYO MXの買収を考えていた時期もあるようです。
――振興銀では木村氏のワンマンぶりが加速して、その方針に異議を唱えた役員が相次いで辞任しています。10年7月には振興銀の社外取締役で、弁護士の赤坂俊哉氏が自宅で自殺しました。木村氏にとって、赤坂氏は信頼できる数少ない人だったともいわれます。
A氏 木村さんは、人によって見せる顔が違うんですね。私自身は声を荒らげている様子を見たことがないし、現場の一般社員に怒るようなことは、なかったのではないかと思います。その代わり、管理職はめちゃくちゃ怒られていたのかもしれません。それから、振興銀の人とは「木村さんは良い部下に恵まれないよね」という話をよくしていました。年上には可愛がられるタイプなんだろうけど、木村さんについてくる人はイマイチな人も多かった。そういう意味では、本人に人望がなかったのか、人を見る目がなかったのか……。
――経営破たんする頃の振興銀の様子はいかがでした?
A氏 警視庁の家宅捜索が入る前から、なんか「ヤバそうだな」という噂は、社内中に広まっていましたが、一般社員は何も聞かされていなかったようです。経営実態は上層部しか知らなかったみたいですし、多くの社員はメディアを通じて知ったのではないでしょうか。
捜索を受ける企業は、だいたいどこもそんなものだ。振興銀も倒産したほかのあまたの企業と同じように、風通しの悪い企業だったということではないか。中小企業取引は、時間をかけて一歩ずつやるしかない。急速に取引高、取引件数を伸ばそうとすれば、必ず陥穽に落ちる。ある部分では、「絶対に回収」という街金流で臨まなければ、不良債権の山をつくってしまう。中小企業融資は、きれい事で済まされるような甘いものではない。木村氏の認識の甘さとその後の破たんは、おそらく、銀行に5年も勤めた経験がある者なら、誰もが予想していた通りの結末だったのかもしれない。
冒頭に述べたように、木村氏については毀誉褒貶が激しく、なかなか素顔が見えない人物だが、今回の取材で少しだけ見えてきた部分もあった。
(文=編集部)