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長年の悲願がついに実現!

パチンコ最大手マルハン、名門ゴルフ場オーナーを狙う理由から透ける、パチンコ業界の闇

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北海道札幌市のマルハン白石店(2012年3月31日)
(撮影:Ninosan「Wikipedia」より)

 パチンコホールの最大手・マルハンが、太平洋クラブホールディングスの担保権を270億円で譲り受け、スポンサーの道へ、一歩前進した。

 太平洋クラブが民事再生法を申請した際に、スポンサーに選定されたアコーディア・ゴルフが提示した額に匹敵する。アコーディアは債権者集会で、同社のスポンサーになることに対してノーを突きつけられ撤退した。太平洋クラブの年間営業利益は5億円以下である。担保権に270億円を投じるのは破格といわれている。

 マルハンは再生計画が裁判所から認可されれば、設備投資支援金として3年間で17億円を出資。また、再生計画の認可確定後の支援実施までの間に運営費が必要になれば、5億円まで運転資金を出すといっている。

●マルハンは投下資金をどう回収するのか?

 それにしても、パチンコホールがなぜゴルフ場なのか? 同社は現在、ゴルフ練習場・峰山ゴルフ倶楽部(京都府京丹後市)を運営はしているが、ゴルフコースは所有していない。ゴルフ場の経営に携わるのは今回が初めてだ。

 そこには、マルハン創業者、韓昌祐会長と韓裕社長親子の並々ならぬ執念を見ることができる。パチンコホールには射幸性の高さやパチンコホールに連日通い経済的に破綻する人が出る“中毒性”、さらには反社会的組織との関係や脱税、北朝鮮への不正送金など、数々のダーティーなイメージが根強くある。名門ゴルフ場のオーナーになることでパチンコホールのステータスを高めたいという、渇望があると見ていいだろう。

「1945年10月、韓国の流浪者を運ぶボートが西日本の下関の海岸にたどり着いた。船上には韓昌祐、15歳がいた」

 英国のフィナンシャルタイムズ(04年4月24日付)が「ギャンブル業界で成功を勝ち得た男、パチンコ王がついに帰化した国で受け入れられる」との見出しで報じた、韓昌祐のインタビュー記事の書き出しである。韓は31年2月15日に韓国・慶尚南道で零細な小作農の三男二女の次男に生まれた。日本が敗戦を迎えた2カ月後の45年10月21日、15歳の韓は煉瓦職人として日本に徴用されていた実兄の手引きで、故郷の三千浦から密航船に乗り込んだ。母からの餞別、米2袋と英語の辞書が荷物のすべてだった。「僕は当時の韓国のボートピープル第1号ではないか」。後年、彼はこう語っている。

 朝鮮奨学金を得て、大学入学資格検定(大検)を受けて法政大学専門部に入学したものの、栄養失調で倒れた。その後、学制改革により法政大の経済学部に編入した。53年に法政を卒業したが、韓国人の彼が職を得ることができる時代ではなかった。そこで京都から列車で4時間の京都府峰山町(現・京丹後市)で機械20台の小さなパチンコ店をやっていた義兄のところへ身を寄せた。これがパチンコとの出会いであった。そして、義兄からパチンコ店を引き継いだ。朝5時に起き、パチンコ台の出玉率を左右するクギの調整の仕方も独学で習得し、閉店後に自分でクギの調整をした。

 12年3月期の売上高は2兆791億円、営業利益は514億円、当期純利益248億円。13年同期の売り上げは2兆1368億円で、3%弱の増収だった。14年同期の売上高2兆2750億円、前期に落ち込んだ利益も営業利益段階で560億円、最終利益288億円に回復するとしている。12年3月末時点で全国にパチンコホール273店を展開。パチンコ・パチスロ機の設置台数は17万1496台、従業員は1万2427人。いまや押しも押されもせぬ娯楽業界の大企業だ。それなのに株式上場の壁は厚かった。

 兵庫県芦屋市六麓荘町は、日本一のお屋敷町である。大きな敷地を所有していないと、家を建てることさえできない。敷地面積は400平方メートル以上、高さは10メートル以下という建築制限がある。高層マンションは見当たらない。高台に広がるお屋敷町の広大な敷地(6600平方メートル)に、うっそうとした森に囲まれた大豪邸(2階建て761平方メートル)が建っている。この屋敷の主は「流通王」と呼ばれたダイエーの創業者の中内●(工編に刀という字)だったが「パチンコ王」のマルハンに替わった。米経済誌「フォーブス」の世界長者番付2012年(日本編)によると韓は資産31億ドル(2449億円=1ドル79円で換算)で8位だった。上位の億万長者は保有している自社の株式が値上がりするなどして、資産価値を大きく膨らませていたが、マルハンは非上場だ。株の評価益ではなく、本当の実力ということができよう。

 韓は日本人の妻との間に五男二女をもうけ、4人の息子がマルハンに勤めている。長男の哲は高校2年の16歳のとき、米国へ英語研修に赴き、ヨセミテ国立公園の渓谷で足を滑らせ、濁流に呑み込まれて亡くなった。後継者は次男の裕である。1963年4月生まれのスポーツマンだ。京都商業高校(現・京都学園)の野球部に所属、81年夏の全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)の決勝まで駒を進めた。準優勝だったが、裕はレフトで5番を打った。甲子園球児として東京六大学の法政大学野球部に入った。88年、法政を卒業した裕はホテル・マンションを展開する地産に入社した。スポーツマンの彼はゴルフ事業部を希望して、埼玉県深谷市にある岡部チサンカントリークラブの配属になった。以来、ゴルフ歴は長い。

 名門ゴルフ場、太平洋クラブのスポンサー候補にマルハンが名乗りを上げた理由は、このへんにあるのかもしれない。
(文=編集部/敬称略)