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セコム、「もう一人の」創業者・生前インタビューから透ける、「共同起業」成功の秘密

文=長田貴仁
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セコム、「もう一人の」創業者・生前インタビューから透ける、「共同起業」成功の秘密の画像1セコム本社(「Wikipedia」より/Rs1421)
 1月30日に警備サービス業界国内トップ、セコムの創業者が81歳にて永眠した。すでに、葬儀は近親者のみで済まされ、昨日(4月8日)、「お別れの会」が帝国ホテル東京(千代田区)で行われた。セコムの創業者といえば「飯田亮氏では」と思う人は多いだろう。同社と関係のある人には今さら説明するまでもないが、実は、戸田壽一氏というもう一人の創業者がいた。

 企業のスタートアップ期から成長期にかけて、ペアでトップを務める場合が少なくない。ただ、その関係性は企業によりさまざまである。どのようなかたちがベストであるかは言い難い。トップの資質、性格、業態、取り巻く環境などにより変わるからだ。

 ソニーのように、井深大氏と盛田昭夫氏という二人の顔が明確に表に出ていた事例があれば、実質上は二人三脚経営であったにも関わらず本田宗一郎氏が前面に出、副社長の藤沢武夫氏が名参謀として女房役に徹した本田技研工業(ホンダ)のケースもある。セコムは、飯田氏が会社の顔となるだけでなく、権限も全面的に掌握した。設立当初は、会社を成長軌道に乗せるためあえて担当を分担せず、戸田氏は飯田氏とともに奔走した。近年は飯田氏と同じく、取締役最高顧問という肩書だったが、飯田氏が社長に就任し今日に至るまで、事実上のトップは飯田氏であり、戸田氏は専務、副会長として黒子に徹し、表に出てこようとはしなかった。だから、セコムの社内外の関係者以外は、戸田氏の名前さえ知らない人が少なくないのだ。

 拙著『セコム その経営の真髄』(ダイヤモンド社)が上梓された時、数多くの著名経営者にインタビューしてきたジャーナリストから筆者は、「飯田さん以下、社長をはじめとする役員たち、現場の人など多くの人に取材しているけれど、よく戸田さんにまでインタビューできたね」と言われた。決して、戸田氏は取材を拒否しているスタンスではなかったが、セコムのことを語るとなれば、飯田氏か現役社長が出てくるのが当たり前になっていた。メディア側もそれで事が足りるし、飯田氏のコメントが魅力的なものだから、「飯田さんに話を聞かせてください」と指名する場合が多かったため、戸田氏に出番が回ってこなかった節がある。しかし、後述のとおり、戸田氏に話を聞いてみると、黒子であろうと自らを律していたことがわかる。

 ここで、あらためて、セコム創業の経緯を紹介しておこう。

 飯田氏と戸田氏が、卒業後、知人から「欧州には警備を業務とする会社がある」という話を聞き、1962(昭和37)年に日本初となる警備保障会社を起こしたのだった。セコム初のビジネスデザインである。このデザイナーは飯田氏、戸田氏という「二人の創業者」である。

 創業時に飯田氏と戸田氏がデザインしたビジネスシステムを急速に普及させた段階、つまりベンチャーにおける急成長期においては、飯田氏が卓越した行動力と表現力を営業で発揮したと考えられる。

ホスピタリティを感じさせる経営者

 では、顔を表に見せなかった戸田氏とは、どんな人物なのだろうか。2012年にインタビューした時に筆者が持った印象は次のとおりだ。

 部屋に入るなり、にこやかな表情で迎えてくれた。なんてさわやかな感じの人だろう。当然、社内では厳しい一面を見せることもあるだろうが、筆者も含めて社外の人を迎えた時の印象は、飯田氏と同様に溢れんばかりのホスピタリティを感じる。偉そうにしている感じはまったくない、かといって、へりくだっているわけでもない。だが、人を包み込むような何かがある。筆者も多くの経営者に会って来たが、最近、こういうタイプの経営者がいるようでいない。そうした共通するパフォーマンス力を持ちながら二人はそれぞれ違った印象がある。飯田氏の言葉を借りれば「俺は雑駁だけれど、戸田さんはきっちりしていて記憶力が良かった」とのこと。

 たしかに、戸田氏は飯田氏と付き合い始めた頃のことをよく覚えていた。

「飯田家は男兄弟ばかりで、長男が不幸にして生まれてからすぐに亡くなられました。その方は名前が私と同じ壽一だったんです。彼の家に遊びに行くようになると、お父さん、お母さんが親近感を持っていただいてね。面白いことに、彼は5人兄弟の末弟です。私は姉が3人いる末っ子なんです。まったくその家庭環境も違っていた。性格的にも私の持っていない面があったものですから大変魅力を感じていました」

 飯田氏の母も「『お前みたいないい加減なやつにはちょうどぴったり』と言っていた」(飯田氏)そうだ。例えば、パチンコをしに行った時のことだ。

「彼はパチンコがうまいんですよ。ここぞという時に勝負をかけて玉を出す。一度聞いたんですよ。『なんでお前、そんなつまらないものに大切な自分の運を使うんだよ』と。すると『ばか、お前、運なんか使って減るもんじゃないよ』と言われました。そういうふうに彼は面白いことを言うんですね」

 大学卒業後も親交を深めた。

「性格的に似たようなところはなかったのだが、唯一の共通点は、お互い酒が好きで強かったということです。酒も飲みたかったし、彼に会いたかった。それで、ちょくちょく遊びに行きました。その頃、彼は酒問屋を営む実家(岡永商店)に勤めていたので、夜は倉庫番をしていました。そこには酒がたくさんありましたからね。まあ、よく飲んだものです」

 酒問屋で生まれ育ったということもあろうが、飯田氏の話には酒にまつわるシーンがよく出てくる。人との交流、起業、アイデアの創出、新事業の立ち上げ、など飯田氏の人生とともに酒がある。まさに、テーマがジャズのスタンダードナンバーにもなったアメリカ映画ではないが『酒とバラの日々』(1962年)である。もっともこの映画の主人公は酒に溺れていくのだが、飯田氏は酒を嗜好品として楽しむだけでなく、その優れたコミュニケーション効果をうまく活用しているように見える。だからか、飯田氏の酒にまつわる話には蘊蓄があり、暗くならない。明るくなる。幼少の頃から、夕食時はいつも、父が5人兄弟全員を前にして、「商人道」と「酒道」を教え込んだせいだろうか。

日本初の警備会社の誕生

 飯田氏は今に至っても戸田氏との関係を「飲み友達だから」と、あっさりと表現する。だが、二人の関係性を物語るこの一言には歴史的意味が含まれている。「飲み友達だから」二人は出会い意気投合し、酒の量とともに会話の量も増え、ブレーンストーミングを行った。既成概念にとらわれることを嫌った二人の脳を刺激し合う。そして、お互いの考えが透けて見えるようになった。

「何かやるんだったら、もう彼とだなというふうに思っていましたね」

 戸田氏の心を動かした。飯田氏の心も動いた。二人の間に心のときめきがなかったら、日本初の警備会社、社会システム産業は生まれていなかったかもしれない。戸田氏は「最近は年ですから、そんなに飲みませんけどね」というが、二人が知り合ってから現在に至るまでの酒量は計り知れない。その量に比例して、二人は経営者としてお互いに成長しセコムも成長した。トップに君臨した飯田氏の変化には、戸田氏も目を見張るものがあった。

「もちろん、若い頃から潜在的に(リーダーになるべく)いろいろな素質があったと思います。私が感心しているのは、会社を始めて長になり、経験を積み重ねてどんどん成長され、器が大きくなっている」

 たしかに、今見る飯田氏は、強いリーダーシップを発揮する親分肌。それに対して、戸田氏は対話に長けたジェントルマンだった。共通している点は、頭脳明晰で、言語だけでなく非言語も含めた表現力が優れていることだ。このようなタイプだと飯田氏と同様、表舞台に多く登場してもおかしくなさそうなのだが、戸田氏はまったくといっていいほど外に顔を見せなかった。会社を始めるにあたって、どちらがトップを務めるか話し合っている。戸田氏は創業の頃を振り返り証言する。

「飯田代表が『誰が社長になるんだ』と聞くので、『あなたに決まっているじゃない』というと、驚いたように『俺が』と返してきました。『やってもいいけれど、こんなに若いのに“社長”ではな』と躊躇するので、『社員代表という意味で“代表”というのはどうだ』と提案したところ、『それがいい』ということになりました。以来、今も社内では“飯田代表”と呼ばれています」

 飯田氏は創業期、社長ではなく「社員代表」という肩書を使っていた。「飯田氏が代表者」という社内的合意は定着しており、対外的には「取締役最高顧問」だが、社内では「代表」と呼ばれている。インタビュー中も、戸田氏をはじめとするセコム役員、グループ企業の社長や社員たちは皆、「代表」と呼んでいた。

No.2に徹する

 このほかにも、創業期に二人の間でさまざまな約束をしている。その一つが、トップは飯田氏で戸田氏はNo.2の立場に徹することだった。

「同じセコムグループだったら、誰か一人わかる人がいて、説明できるようにしておかなくてはいかんということで、飯田代表にトップを務めてもらうことになりました。総力を結集するという意味なんです」

 実は戸田氏は、飯田氏の学習院大学の1年先輩に当たる。飯田氏がアメリカンフットボール、戸田氏は野球部に所属していた、お互いスポーツマンである。上下関係にうるさいのかと思いきや、先輩面はまったくしない。それは飯田氏との関係においても徹底している。

「もちろん代えがたい友達だと思っていましたが、会社をやることになって、言葉づかいから態度まですべて、飯田代表には会社の長として対応いたしました。私は不器用ですから、うまく切り替えできません。そのほうが簡単なんです。職務をはずれた時、いきなり、『おい、お前』なんて、友達付き合いに急に切り替えるほうがよほど難しいです」

 その姿勢はプライベートで飲みに行っても崩さなかった、という。なかなかできないことである。二人は既成概念にとらわれず自由を追求した。だが、その自由の中には崩してはならない、崩さないものが必ず存在した。常に新しいビジネスに挑戦しながら、経営(企業)理念を死守するセコムの企業行動は、創業者の姿勢に通じるところがある。

 真意は「誰がトップかわからなくては、社員がどのように接したらいいのか迷ってしまう。飯田派、戸田派など派閥ができては困りますから」とのこと。実際、セコムには今も、派閥が存在しない。

 戸田氏に飯田氏の印象を聞くと、「会社が大きくなるとともに飯田代表も大きくなっていかれました」と創業以来、一番近くで飯田氏を見続けてきた人の飯田評である。たしかに、現在の飯田氏にはなんともいえぬ威厳と、それを過剰な重圧に感じさせぬしなやかさが感じられる。威厳と重圧は違う。組織論の先行研究では、組織には重しが重要であり、はやりの「フラットな組織」がベストではないとされている。ここでいう「重し」とは重圧ではなく威厳という表現が、ほぼ当てはまるのではないだろうか。

 自由闊達がセコムの社風であり、飯田氏もその企業文化をさらに促そうとしている。しかし、一方ではセコムにとって最も重要な倫理観を死守しようとする。そのためには厳しさが求められる。自由には常に責任が伴う。飯田氏が学んだ「(旧制)湘南中学は戦前においても校則がなかった」(飯田氏)という。同中学で入学試験を受けた時、面接で「将来、何になりたい」と聞かれたので、「軍人になります」と答えたところ、一人の先生が「最近、嫌になるよな。みな軍人、軍人で。一人ぐらい実業家になる奴っていないのか」と言ったのを飯田氏は鮮明に記憶している。このような風土から飯田氏の規律ある自由の概念、現状を打破する実業家への志が育まれたのかもしれない。

パラダイムの転換

 そして、この世代に共通した経験が「パラダイムの転換」である。

「鬼畜米英と教えられてきたのに、アメリカの民主主義が喧伝されました。飯田代表も私も、既存の価値観というものに疑問を抱くようになりました。真実とはなんだという思いが、二人とも非常に強いんです。生意気盛りということもあり、既存の企業や社会の在り方に対して反発がありましたね」

 これまでにないビジネスをやろうと二人が意気投合した価値の源泉はここにあったと考えられる。それは時代の空気であったかもしれないが、その空気をかたちあるものにして成功に導いた人はそれほど多くない。新しい時代の流れに乗り成功すると、「あの人はうまいことやった」という人がいる。だが、その「うまいこと」が難しいのである。ましてや、まったく新しいビジネスシステムを生み出し、短期間に成長させることは至難の業である。

 急成長した企業で必ずと言っていいほど生じるのが、経営者と社員の軋轢である。自由を尊重し威厳のあるリーダーとともに歩んできた戸田氏は、「社員感情」を大切にした。例えば、セキュリティ業界では労働組合のない会社が少なくないが、セコムは日本警備保障時代に先駆けて労働組合をつくった。「会社は社員のために、社員は会社のために」を実現するには労働組合が必須であると考えたからだ。

ソニー、ホンダとは違う点とは?

「二人の創業者」がいる企業は、役割分担を行う場合が多い。ホンダにおける、主に技術を担当し会社の顔になった本田宗一郎とその他を見た「女房役」藤沢武夫とのコンビ。本田氏はすでに経営者経験のあった藤沢氏を三顧の礼をもって迎えた。二人が経営の第一線を退いた時、藤沢氏は講演先で「社長は本田だったが、経営者は私だった」と話して笑いをとった。それを耳にした本田氏は決して怒らなかった。「そのとおりだ」とうなずいたという。

 ソニーも見事に創業者二人の役割分担ができていた企業だ。井深氏と盛田氏はどちらも大学は技術系の出身だったが、兵役中に知り合った盛田氏は兄貴分の井深氏を「天才的技術者」として尊敬していた。創業期においも早くから、井深氏は技術、盛田氏は主に営業を担当し、さらに国際ビジネスマンとして飛躍する。

 これら2社の「二人の創業者」は、お互いを認め合っていた。セコムの飯田氏と戸田氏は出会いも関係性も異なる。創業期は飯田氏と戸田氏はともに、靴の底をすり減らし飛び込み営業に奔走した。その後も、きっちりと役割分担を行ったわけではない。ケースバイケースで、その時々の仕事をこなしていた。

 だが尊重し合う点は類似している。「飲み友達だから」(飯田氏)と言いながらも、親しき仲にも礼儀ありを貫いていたようである。飯田氏に「売れっ子漫才コンビでも別れることがありますが、厳しい経営をやりながら、よくけんかしませんでしたね」と冗談半分に言うと「けんかなんかしたことがない」と答えた。「その秘訣は」とさらに問い詰めると「戸田さんが我慢したんだろうね」と、いつもの通り飯田氏は自虐的だ。戸田氏も「飯田代表が寛大だったんでしょう」と立てていた。

「二人の創業者」が、お互いに褒め合う。至らぬところはこちらにある、と一歩引く。長く続く親友の関係、経営パートナーの関係を築く上で「二人の創業者」から学べることは多い。その基盤になっているのは、20代に二人で夢見た「青雲の志」であり、その後苦労を共にした刎頚の友という絆だ。合理性だけでは説明できない男同士の融和と緊張感が人生を極めた男の顔をつくったのだろう。飯田氏と戸田氏の表情、しぐさに、美しさを感じるのは私だけだろうか。グループ企業の社長は「飯田代表は歌舞伎役者みたいでしょう」と話していた。それはジョークではなく、身ぶり、話し方、その他もろもろの点で強いリーダーの存在感を感じるという。戸田氏は飯田氏に名歌舞伎役者を演じさせた黒子であると見た。戸田氏の表情には、セコムという組織の中で自ら規律を課し、飯田氏とともに働いた喜びが映し出されていた。

 20代の飯田氏と戸田氏が並んで颯爽と歩いている創業時の写真を見ると、青雲の志を抱く血気盛んですがすがしい起業家(共同創業者)の顔がうかがえる。筆者は成功した企業家が写った創業時の写真を見る機会が少なくない。それらに共通しているのは、創業期に見せる創業者および創業メンバーの溢れんばかりの笑顔だ。こんな笑顔が一生続けば、病気などしないのではないかと思えるほど人間の健康的な一面がクローズアップされている。戸田氏亡き後、快活そうな笑顔は、二人だけでなくセコムの大きな財産になっていることだろう。
(文=長田貴仁)

【注】文中の戸田氏の発言は、筆者が2012年に行ったインタビューに基づく。

長田貴仁

長田貴仁

ビジネス誌「プレジデント」編集部を経て、2005年4月、神戸大学大学院経営学研究科助(准)教授に就任。研究・教育に携わる傍ら、同研究科が設立したNPO法人現代経営学研究所が発行する学術誌「ビジネス・インサイト」の編集責任者を務め、抜本的に改革する。その後、他3大学の社会人MBAや複数の大学の学部でも、客員教授、非常勤講師として教鞭を執ってきた。2013年4月から岡山商科大学に招かれ、15年から18年3月まで2期4年、経営学部長を務めた。日本人学生だけでなく、多くの留学生とも交流を深め、草の根のグローバル化を実践している。所属学会・研究所は、組織学会、日本経営学会、経営史学会、日本ベンチャー学会、企業家研究フォーラム、日本マーケティング学会、日本広報学会、経営行動科学学会、神戸大学経済経営研究所、現代経営学研究所。

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