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伊藤忠を間一髪で救った名広報部長、逝去…世界を揺るがせた東芝機械ココム違反事件の真相

文=有森隆/ジャーナリスト
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伊藤忠商事東京本社(「wikipedia」より/Rs1421)

三谷晃司理事(元常務取締役)が逝去いたしましたので謹んでご連絡申し上げます」と連絡が入った。満87歳の死だった。10月19日、神式の家族葬が営まれた。

 総合商社最強といわれるようになった伊藤忠商事の広報部の礎を築いた人だった。家族葬に参列された井坂博恭氏が伊藤忠・広報を発展させ最強にした。この2人の名前を知らない経済ジャーナリストはもぐりといわれている。

 夏から悪かったそうだが、小康状態を保ち、15分程度の散歩ができるまで回復した。台風の気圧の変化で、再び具合が悪くなったそうだ。20年前からの悲願であったイタリア・ミラノにもう一度(行きたい)という夢が叶わなかった。三谷さんは伊藤忠時代、ミラノに駐在した。

 井坂氏は「私は彼(三谷氏)の下にいなかったら、今の私はいなかったと思っています。私の人生最大のインパクトのある人でした」と述懐している。井坂氏はまだビジネス界で働けるのに(と筆者は思っているのだが)、伊藤忠グループを離れてからは母校横浜国大のヨット部の監督をボランティアでやっている。ヨットには乗船しないが、シーズン中はモーターボートで海に出て指導・監督をしている。筆者は井坂氏の生き方に強く共感する。

 なぜ三谷氏が名広報部長だったかについて書く。今の広報マンにやれといってもできないことを彼はやってのけた。商社マンとしてのキャリアの上で、この決断が必ずしもプラスに働いたとは思えないが、伊藤忠の常務名古屋支社長、関連食品会社(非上場)の社長を務めたのだから、不幸だったとばかりは言えない。以下、拙著『日本企業モラルハザード史』(文春新書、2003年9月刊)から引用する。

東芝機械、ココム違反事件(1987年)

 大型工作機械のトップメーカー、東芝機械がココム(対共産圏輸出統制委員会)規制に違反し、大型NC(数値制御)工作機械をソ連に不正輸出した事件で、警視庁生活経済課と外事一課は外為法(輸出承認を受ける義務)違反の疑いで同社幹部二人を逮捕し、関係者から事情を聞いている――朝日新聞は一九八七(昭和六十二)年五月二十七日付夕刊一面トップでこう報じた。

 東芝機械は機械部品とNC装置に入れるコンピュータープログラムを通産(現経済産業)大臣の承認を受けずにソ連に輸出した疑いがもたれていた。通産省は同年四月二十八日、東芝機械を外為法違反で警視庁に告発していた。ポイントは、対共産圏輸出委員会の禁制品を、そうではないと偽ってソ連に輸出したかどうかにかかっていた。警視庁は「ココム違反を承知で輸出した会社ぐるみの犯罪」と断定し、幹部への強制捜査に踏み切った。

 ソ連はこの機械を使い、潜水艦のスクリュー音を小さくする技術を開発した、と米国は指摘、苛立ちを募らせていた。逮捕されたのは東芝機械の材料事業部鋳造部長の林隆三と、工作機械事業部工作機械第一技術部専任次長の谷村弘明の二人。不正輸出した当時、林は工作機械事業部長室長、谷村は海外本部工作機械輸出部専任課長で、「無承認対ソ輸出」の中心的な役割を果たしていた。

 調べによると東芝機械は一九八二(昭和五十七)年十二月から翌八三年六月にかけて、伊藤忠商事と和光交易の仲介で全ソ連技術機械輸入公団に対し、船舶推進用プロペラ表面加工機四台を輸出した。この機械は前後、左右、上下、回転運動など九つの方向に刃先が同時に動く、同時九軸制御の高性能機械だ。三軸以上を同時制御できる機械は輸出できない、というのがココムのルールだ。最初からココムに引っ掛かることがわかっている機械だった。

 そこで東芝機械では「二軸しか制御できない」と偽の申告をして、「ココムに違反していない」という通産省のお墨付きを手に入れた。「機械本体の輸出は時効(三年)のため、部品とコンピュータープログラムの不正輸出に的を絞り、二人を逮捕した」(捜査関係者)という。東芝機械ではこの機械を重電機工場に据え付けた、と説明しているが、レニングラードの造船所で使われていたことも判明している。東芝機械製のすぐれ物は、原子力潜水艦のスクリューの製造に役立つからだ。

 問題の工作機械は原潜の大型プロペラを作るレニングラードのバルチック造船工場に運び込まれた。重電機用というのは真赤な嘘だった。軍事転用を承知の上で、不正輸出を図った疑いが強まったとして、捜査当局は関係者を厳しく追及した。軍事転用は重大である。逮捕された二人のほか、外為法の両罰規定を適用して、東芝機械とソ連の友好商社、和光交易の二法人と両社の元役員など関係者七人を書類送検した。

 和光交易は、NC工作機械の商談を仲介したほか、ソ連の駐在事務所を中心に、不正輸出に加担するなど東芝機械と共謀関係にあった。和光交易では修正プログラムの不正持ち出しに関与した社員など三人が書類送検された。東芝機械の不正輸出事件にはノルウェーの国営企業、コングスベルグ社が深く関与していることも分った。九軸制御用のコンピュータープログラムはノルウェーのコ社経由でソ連に輸出されていたのだ。NC装置はノルウェーから日本に。電算機プログラムは日本からノルウェーへ。ココム逃れの典型的な手口がここにあった。

 ノルウェーの国営企業をワンクッション置くことによって輸出ルートを隠蔽するやり口は、東芝機械の会社ぐるみの犯行であることを裏付けた。この手口を見つけ出すのに、I・Aオシポフ全ソ連技術機械輸入公団副総裁らソ連国家保安委員会(KGB)のメンバーが関与していた疑いが濃い。警視庁は対ソ不正輸出の経緯が、逐一、当時の東芝機械の社長まで報告されている事実をつかんだ。社長は久野昌信で、逮捕された林隆三部長らは「商談の内容は経営幹部も知っていた」と供述している。

 通常、輸出は貿易商社を名義人として行われる。今回は伊藤忠商事だった。ココム規制対象品であるかどうかのチェックの責任は商社側にも生じる。当初、伊藤忠は「高度の技術的な判断は商社サイドでは無理」と弁明したが、その後、「管理体制を強化し、ココム委員会を社内に設置するなど、かかる問題の絶滅を期す」とのコメントを出した。

 東芝機械は飯村和雄社長が引責辞任したが、米国の怒りは収まらなかった。『USニューズ・アンド・ワールド・リポート』は国防総省筋の話として、米空軍が購入する予定だった一億ドル(約百四十億円)の東芝の小型コンピューター九万台の契約を破棄することを決めた、と伝えた。東芝機械の親会社、東芝に怒りの標的が移ったのだ。中曾根首相の強い指示で、東芝機械の社長辞任、東芝機械の輸出自粛にまで発展したが、米国議会に東芝制裁の法案が提出される事態にまで発展するとは考えていなかった。通産省も慌てた。米国は再三再四、追尾中のソ連の新型原潜を見失い、ショックに見舞われていたということがあとで分ったが、米国の怒りの原因がつかめなかったから政府の対策は後手後手に回った。

 七月一日の夕刻、東芝機械の親会社、東芝の佐波正一会長と、渡里杉一郎社長が辞任した。東芝の両巨頭の辞任劇は米国でもトップニュースで扱われた。しかし米国の議会筋は日本独特のハラキリをまったく評価しなかった。「相変わらず、ことの本質が分っていない。事件のもう一方の当事者であるノルウェーでは、不正輸出に関わったコングスベルグ社を解散した。コ社本体もソ連・東欧向けの貿易部門を閉鎖した。それに比べたら東芝グループの対応はまだまだ手緩い。日本政府の指導力も問題だ」と厳しく指摘した。米国では強硬派の下院議員が議会前で東芝製のラジカセをハンマーで打ち壊すパフォーマンスを演じてみせた。「東芝製品をボイコットせよ!」というわけだ。

 こうしたビッグニュースの陰に隠れた感じだったが、日米の防衛関係者は、東芝トップ辞任の前日に発表された一つの人事に注目していた。伊藤忠商事の瀬島龍三相談役が七月一日付で顧問に退くというものだった。ココム違反の火の粉が伊藤忠にふりかかるのを懸念して、先手を打ったのだという解説が商社業界に流布した。飽和点を突破した米国のタカ派の怒りは、なまじのことでは収まらない気配で、米国の次の標的は伊藤忠と信じられるようになっていた時期だ。

 こんなこともあった。伊藤忠の米倉功社長(当時)は数カ月前からこの時期にモスクワに行く予定が決まっていた。大口商談の調印のためだった。役員会で「行くべきかどうか」議論したが、結論が出なかった。大勢は「行ったって大丈夫だろう」という楽観論だったが、三谷晃司広報部長(当時)が「米国のマスコミの対応はことのほか厳しい。モスクワに行けば何を言われるかわかりません。是非、延期して下さい」と進言したのが効いた。もし、米倉社長がモスクワに行っていたら、米国の伊藤忠バッシングの火の手はもっと強まっただろうし、米倉社長の引責辞任も避けられなかったといわれている。

 そもそも、この事件は発端から様相を異にしていた。東芝機械の輸出の窓口商社の一つだった和光交易の元モスクワ事務所長がパリのココム本部に「不正輸出」の実態を一年以上前に内部告発していたのだ。米国防総省が通産省に対して八六(昭和六十一)年暮れに、しつこくこの案件の調査を依頼してきたのは、ココム本部から詳細な情報を得ていたからだ。

 内部告発者、熊谷独(ペンネーム)は、「文藝春秋」八七年八月号に、「東芝機械事件・主役の告発――これがソ連密貿易の手口だ」と題する独占手記を発表した。

「技術的な問題がすべて解決し、契約書の原案を作成する段階になって、『伊藤忠を売手代表として起用したい』と、突然、東芝機械から和光交易に申し入れがあった。『東芝機械は、ソ連向けの輸出窓口として、これまでも永年、伊藤忠を起用しており、本案件のみ、和光を窓口にすると、伊藤忠より強硬な苦情がでる。(中略)本件だけ、唐突に和光という初めての商社を通すと、関係官庁だけでなく、東芝機械社内や業界のよけいな注意を惹きつけることになり、いろいろ問題が生じる惧れがある。和光さんの功績は、充分評価するし、口銭についても、充分にお支払いする(後略)』」(「文藝春秋」より)

「結局、和光は実利を取って、売手の名義人を伊藤忠に譲ることになった」(同)

 そして手記はこう結ばれている。「あのスクリュー工作機械の用途である。私は、本当にそれが報道されているように潜水艦用だったのか疑っているのだ」。海でなければ空(ミサイル)だというのだ。

 内部告発者は起訴猶予になったが、ロシア人の恋人が登場したりして、スパイ映画顔負けの展開をみせた。彼がココム本部に密告した動機も今もって解明されていない。ソ連が欲しがった超大型のプロペラ加工機を製造できるメーカーは、日本でも東芝機械以外ほとんどなかった。世界中を探しても東芝機械が最右翼だった。利幅も大きく、四台三十七億円の商談の「三分の一が利益だった」(東芝機械関係者)。大きな利益をエサに東芝機械はKGBに呼び込まれたのだ。和光交易が扱い商社だったが、伊藤忠が一枚噛むことになった理由もはっきりしない。利益を得る目的だけだったとは考えにくいからだ。一九八五年頃から就役した原潜のスクリュー音が急に小さくなった。それを可能にしたのが日本のハイテク技術だったわけだが、こうした技術を持つ企業や商社のリスク管理能力が、国際的に見てかなり劣っていることも証明された。

 伊藤忠の危機も間一髪だった。トップの危機管理能力が企業の命運を決めることを、ココム違反事件は浮き彫りにした。東芝の会長、社長が同時に辞めたが、「辞めるよう」強く進言したのが誰だったのか。二人そろってやめる必要があったのかどうかだ。佐波会長、渡里社長の意思疎通が外部から見てもうまくいっていなかったことが東芝の悲劇だった。企業の存亡がかかっている時に、自分を無にして、企業のため(フォワ・ザ・カンパニー)を貫き通せる経営者はそう多くないということだろう。渡里社長を失った東芝は、急激に輝きを失い、普通の会社になってしまった。半導体不況の直撃を受け、二〇〇二年三月決算と同年九月中間決算経常段階で大赤字に転落した。

~拙著『日本企業モラルハザード史』の引用はここまで~

東芝の悲劇

 拙著を離れて後日談を。東芝は渡里社長を失ったことが原因で、その後のマグニチュード7級の“東芝の悲劇”を招来した。佐波氏もそれなりの経営者だったが、後を襲った人々が二流、三流だったということだ。その筆頭が西室泰三社長・会長。勲章コレクターと評され、経団連会長になりたい病に取り憑かれた。西室氏が会長に居座ったため、その後のトップ人事が停滞。私利私欲のトップ同士の泥沼の抗争に発展した。

 伊藤忠の米倉社長はモスクワには行かず難を逃れ、この後、経団連の副会長になった。この場面でも三谷氏は黒子として大いに活躍した。

 伊藤忠の本社に近かった赤坂東急ホテル(現赤坂エクセルホテル東急)に泊り込んで三谷氏は情報収集の先頭に立っていた。筆者は深夜、同ホテルで三谷氏と何度も話をしたことを忘れない。“戦友”だったのかもしれない。

 現在の日本のリーディング企業で、一介の広報部長(この時、三谷氏は役員ではなかった)が社長のすでに日程まで決まっている海外出張にストップをかけることなどできないだろう。また、そのようなことが言い出せるような土壌もない。

(文=有森隆/ジャーナリスト)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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