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優秀すぎた渋沢栄一の孫・渋沢敬三…動物学者志望の金融トップはなぜ財閥解体を受容したか

文=菊地浩之
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渋沢敬三、1896(明治29)年〜1963(昭和38)年。(写真はWikipediaより)

日銀総裁+大蔵大臣

 最近、明治の実業家・渋沢栄一が脚光を浴びている。次に「1万円札の顔」になる人物であり、また2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け(せいてんをつけ)』の主人公になることも内定している。

 だが、ここで紹介したいのは、その孫・渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう/1896〜1963)である。

 彼は29歳で第一銀行(その後、第一勧業銀行を経て、現在のみずほ銀行)取締役に就任し、45歳で副頭取に就任した。第一銀行はおじいちゃんの渋沢栄一がつくった銀行なので、これはコネによるものだろう。だが、その先がスゴイ。

 1942年3月、第二次世界大戦で日本の金融界が混乱する中、日本銀行副総裁に引き抜かれる。これには当人も辞去したが、第一銀行の重役たちも「これは跡取り(息子)だから養子にくれというのはひどい」と大反対。最後には内閣総理大臣・東条英機が出馬して、サーベルをガチャガチャさせながら、なかば脅して承知させたという逸話が残っている。

 1944年3月に47歳で日本銀行総裁に就任。そして、翌1945年8月に日本は敗戦。同年10月に幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)が総理大臣として内閣を組閣すると、敬三に大蔵大臣としての入閣を懇望。49歳で大蔵大臣を務めた。つまり、40代後半で、民間銀行の副頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣を総なめしてしまったのである。まさしく金融界のトップだ。

 しかし本人は、「私は実業を志してはいなかったので、銀行は大切だと思いましたがおもしろいと思ったことはあまりありません。しかし、真面目につとめておりました。が、人を押しのけてまで働こうという意志もありませんでした」と語っている。なんと欲がない。その欲がないところが評価されたらしい。

動物学者になりたかった

 実は渋沢敬三は、動物学者になりたかったのだ。実業なんかに欲がなかったのだ。実際、金融マンとして激務のかたわらにも動物学・民俗学の研究にいそしみ、多くの業績を残している。

 敬三は旧制第二高等学校の英法文科に進んだのだが、どうしても動物学を学びたい気持ちが抑えられず、祖父・渋沢栄一に理系の学科への転部を願い出た。

 ところが、そこに複雑な家庭の事情があった。敬三の父・渋沢篤二(しぶさわ・とくじ)は、渋沢栄一の次男(長男が早世したので、事実上の長男)だったのだが、病弱・放蕩の「趣味の人」だったので、栄一は篤二を跡継ぎから廃して、孫の敬三を後継者に選んだ。

 栄一は孫の敬三を高く買っていた。知人に「この孫は、自分の子どもや孫のうちで一番出来がいい。この孫に自分は非常に期待をかけているんだ」と語っていたという。

 そして実際のところ栄一は、後継者の敬三に第一銀行の経営を継がせたがったらしい。

 世の人は、栄一を公明正大な人物で世襲とは無縁と評価しているようだが、銀行業には強い思い入れがあったようだ。三男から五男を大学卒業後に銀行に就職させている(ただし、みんな入行2~3年で辞めてしまい、造船会社や都市開発会社に転職したので、意外に知られていない)。事実上の長男だった篤二がいよいよ銀行経営に向いていないと悟ると、栄一は東大卒のエリート銀行員・明石照男(あかし・てるお)を娘婿に選んで、敬三が頭取に就任するまでの「中継ぎ」とした。敬三が第一銀行の副頭取だった時、頭取はその明石照男だったのだ。
だから栄一としては、かわいい孫・敬三の望みを聞き入れる訳にはいかなかったのだ。

 敬三はその時のことをこう述懐する。

「そのうち祖父(栄一)とメシを食うことになって会ったら、祖父はまじめな顔をして、お頼みすると言い出した。頼むと言った。お前の言うことはわかっておる。悪いとは言わんけれども、おまえもおれの言うことを聞いてくれといわれた。あれだけの人物から本気になって、ほんとうに頼むと言われると、ホロリとなっちゃう。それで、しょうがありません。承知しましたと言ってから、不意に涙が出て困ったのを覚えて居る。すると祖父はホロリと涙を出した」(渋沢敬三伝記編纂刊行会編『渋沢敬三』)

 ホントは動物学者になりたかったけど、財閥の御曹司に生まれたから、やむなく家業の銀行を継いだ。そしたら、日本銀行の総裁に推され、大蔵大臣にも望まれて……でも、金融ってそんなにおもしろくなかったんだよなぁ。

――そんな人生は幸福なんだろうか。不幸せなんだろうか。

妻は岩崎弥太郎の孫

 渋沢敬三を大蔵大臣に懇請した幣原喜重郎が、岩崎弥太郎の娘婿であることは有名だ。

 ところが、渋沢敬三もまた岩崎弥太郎の孫娘のお婿さん――つまり、幣原は敬三の義理の叔父――なのだ。もう少し具体的にいうと、岩崎弥太郎の長女の婿が総理大臣の加藤高明、四女の婿が幣原喜重郎。次女の婿が京都府知事の木内重四郎(きうち・じゅうしろう)で、その次女・登喜子が敬三の妻というわけだ(弥太郎の三女の婿は若くして死去した)。

 渋沢栄一と岩崎弥太郎は主義主張が正反対で、いわゆるライバルだったことが知られている。ではなぜ、よりにもよって栄一の後継者である敬三の妻が、ライバル・弥太郎の孫娘なのか。タネ明かしすれば、簡単なことで、恋愛結婚だったのだ。

 渋沢家、岩崎家は子弟を共に東京高等師範学校(現在の筑波大学)附属小学校、中学校に学ばせていた。登喜子の兄・木内良胤(きうち・よしたね)が敬三と同級生で、互いの家を行き来する親友だった。そして、親友の妹と恋仲になってしまったということだ。

 報告を聞いた栄一は悩んだ。大事な孫があの弥太郎の孫娘と結婚したいだと……?

 栄一の前半生は、大河ドラマになるくらい激動でかつ本人も血の気が多かったのだが、晩年は家族に優しい好々爺だったようだ。結局、結婚相手は弥太郎の孫といっても「岩崎家の人間じゃなく、木内家の人なんだから」という妙なリクツで許したらしい。なんか曖昧な決着で、いかにも日本人らしい。

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『渋沢敬三 小さき民へのまなざし』(アーツアンドクラフツ)。渋沢敬三の著作などからその一部を収録し、解説などを加えたもの。渋沢敬三は日本の「民俗学」の創設にも大きく関与し、宮本常一などとも深く関わった。

財閥じゃないのに解体される

 渋沢栄一は財閥の形成を考えていなかったが、渋沢同族株式会社という持株会社があり、栄一の子どもたちは数多くの企業役員を兼務していた。

 そこに、終戦を迎えてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が財閥解体を実施した。財閥解体では、三井や三菱など「十大財閥」が指定され、そこには渋沢家は入っていない。しかしGHQは「十大財閥」を指定する前に「十五大財閥」を指定しており、そこには渋沢家も入っていた。ところが詳しく調査を進めていくうちにGHQは、渋沢家が財閥といえるような代物ではないことに気がついた。

 持株会社の渋沢同族は確かに企業の株式を持ってはいるが、それらは単独で企業支配できる持株数を満たしてはいない。

 そもそも渋沢栄一は、多くの事業を興すために、企業を設立する際に株式を出資してはいたが、それらの事業が軌道に乗ると株式を売却して、また違う企業設立の原資とした。第一銀行や石川島造船所(現在のIHI)など、会長を務めていた企業の株式は最低限、少数持株支配ができる――かな?――くらいの株式しか持っていなかった。

 渋沢同族は、傘下の企業を支配するための持株会社ではなく、栄一が持っていた株式の配当を一族で分け合うための資産管理会社という側面が強い。

 栄一の子どもたちは多くの企業で役員になっていたが、それらは株式所有の裏付けがない。個人としての才覚、もしくは栄一への恩義として渋沢家の人間を役員にしているような感じだった。

 しかし、渋沢同族株式会社は、財閥解体の対象に含められてしまった。

 GHQは、渋沢家の当主・敬三に財閥解体の対象解除となる申請を出すように勧めた。申請先は大蔵大臣。当時の大蔵大臣は敬三自身だった。

 敬三は自分宛の申請を書くことを嫌い、また、多くの日本人が戦死したにもかかわらず、巨万の富を相続している自分を潔しとせず、解体を受け入れてしまった。本人は晴れ晴れとしたもので、自ら「ニコボツ(ニコニコしながら没落)」と称していたという。

 まぁ、もっとも戦後も、国際電信電話(現在のKDDI。auブランドで有名)の初代社長に推されるなど、社外役員や各種委員会・顧問などに引っ張りだこで、1963年の死去の際には30を超える肩書きがあったという。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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