PCR検査を受けるための“資格”
「(2009年に国内で流行した)新型インフルエンザの際は初期段階で感染者の追跡調査に力を入れ、5月下旬までに健康監視の対象者は約13万人に上り、保健所がパンクした」(2月15日付日本経済新聞「新型肺炎、早期発見・治療に重点 水際対策から転換」より。カッコ内は筆者の補足)
2月中旬に出たこの記事が、その後もずっと気になっていた。新型インフルエンザ対応で失敗した反省に基づき、新型コロナウイルス対策ではこれまで、「クラスター(感染者集団)探し」と、そこからの感染拡大阻止に重点が置かれてきた。ウイルス感染を調べる「PCR(polymerase chain reaction)検査」にしても、クラスター探しと関連した検査が優先され、その他の検査は後回しにされてきた。感染していないことの証明を求める「安心検査」に至っては、完全に無視され続けている。
こんなふるい分けができるのも、PCR検査が保健所の仕切りで行なわれてきたからである。検査を希望する人が病院に殺到するのを防ぐことも、保健所が仕切る理由とされた。2009年の新型インフルエンザの際も、感染を恐れた人々が病院に殺到し、医療機関が大混乱に陥っていたからだ。
PCR検査を受けるためにはまず、保健所に設けられた「新型コロナ受診相談窓口」(「帰国者・接触者相談センター」ともいう)に電話かFAXで連絡し、問診を受けなければならない。そしてこの電話が、なかなかつながらない。
そんな時は、FAXを利用するよう保健所でも勧めているのだが、今どき家にFAXがある人も珍しいだろう。LINEでの相談も受け付けているが、相談できるのは「一般相談のみ」。PCR検査を希望するならあくまでも電話かFAXで、としている。
この最初の“関門”を突破し、保健所で「受診が必要」と判断してもらえた場合のみ、次のステップ「帰国者・接触者外来」へとコマを進めることができる。そしてここの医師が「検査の必要あり」と診断してようやく、PCR検査を受ける“資格”が得られるのだ。鼻や喉から検体を採取してもらえるまでに、ここまで面倒な道のりが待ち構えている。風邪の症状で苦しむ人にしてみれば酷なことだ。
この「帰国者・接触者外来」は東京都の場合、77カ所もあるというのだが、この外来がどこにあるのかは秘密にされている。この仕組みを考えた感染症の専門家らは新型インフルエンザの時の経験から、一般市民のことをとことん信用していないのだろう。
保健所からの紹介を経ずにその場所を知る術はほとんどなく、どこかの病院で新型コロナウイルスによる院内感染が発生し、実はその病院に「帰国者・接触者外来」が設けられていた――という報道を通じて知るくらいのものだ。ただし、その時には一般外来窓口とともに「帰国者・接触者外来」も一緒に閉鎖されてしまうので、どのみち検査はしてもらえそうにない。
では、なぜこのような面倒な仕組みに付き合ったうえでなければPCR検査をしてもらえないのか。そのキーワードとなるのが「疫学調査」なる業界専門用語である。
「疫学調査」は患者救済よりも優先される?
3月1日、新型コロナウイルス対策の要とされる国立感染症研究所(感染研)は、「新型コロナウイルス感染症の積極的疫学調査に関する報道の事実誤認について」と題するコメントを感染研のホームページに載せた。
感染研が、「検査件数を抑えることで感染者数を少なく見せかけようとしている」「実態を見えなくするために、検査拡大を拒んでいる」などと批判される報道が相次いたため、それは「事実誤認」であると反論したものなのだが、そうした誤解が生まれるに至った背景を解説してくれたのが、3月11日付の日本経済新聞電子版「新型コロナ、日本の検査遅らせた『疫学調査』」だった。(有料会員限定記事です。)
以下、同記事から一部引用する。
「疫学調査とは新しい感染症が発生した際、感染者や濃厚接触者、疑いがある人の健康状態を調べ、病気の特徴や広がりといった感染の全体像をつかむ調査だ。患者一人一人を検査して治療する医療行為ではなく、感染防止策を探るなど病気から社会全体を守る公衆衛生の発想に基づく。
だからこそ感染研は必要な試薬や装置を組み合わせて自前で確立した検査手法にこだわった。中国・武漢をはじめ世界に供給していた製薬世界大手ロシュの検査キットを使って国内の民間会社が検査をし出すと、検査の性能のばらつきで疫学調査にとって最も大切なデータの収集が難しくなる。これが検査能力を拡大するボトルネックとなった」
検査量の拡大を阻んでいる原因は「感染研が自前で作った検査手法」にあると、同記事は指摘していた。感染研の手法とそれ以外の手法では精度や性能が異なり、他の手法によるデータが混じると疫学調査の体をなさなくなる――というわけだ。そこには、ことによると自分や家族が感染しているのではないかと恐れる一人ひとりの市民への配慮など微塵も感じられない。
この記事を読み、1968年10月に発覚し、1万人以上に上る食中毒被害を引き起こした「カネミ油症」事件の際に起きた、ある出来事を思い出した。カネミ油症は、カネミ倉庫(本社・福岡県北九州市)が製造した食用米ぬか油「カネミライスオイル」を食べた人たちの間で発生した。原因は、米ぬか油の製造過程で誤って油に毒物のPCBやダイオキシン類が混入したことだ。健康被害は、毒入り油を食べた者だけでなく、その子どもや孫の世代にまで及んでいる。
同事件が発覚する数カ月前、九州大学病院に強い肌荒れ症状(塩素痤瘡)を呈した患者が何人も訪れ、診察した医師は、その患者たちが揃ってカネミ倉庫製の米ぬか油を食べていたことを突き止めていながら、その事実をすぐに公表しなかった。医学論文にして発表しようとしたからである。被害の迅速な拡大防止や被害者救済より、医学者としての自分の功績や地位向上を優先してしまうその感覚は、治療を受ける側の市民にはとても理解できるものではない。
ちなみにその論文は、68年10月の第一報が報じられた後、ひっそりと発表されていた。つまり論文は、食中毒被害の拡大防止に役立つことはなかった。
さて、今般の感染研「積極的疫学調査」のほうは、新型コロナウイルス感染者の迅速な発見と治療のためにどれだけ役立っているのだろうか。私たち市民にしてみれば、いち早い患者救済よりも優先される「医学論文」や「疫学調査」なんていらない。
専門家たちの読みの甘さ
衝撃のニュースが流れたのは4月3日のことだった。駐日アメリカ大使館がウェブサイトで「今のところ、日本の医療システムは信頼できるが、感染が広がると、数週間後、機能するか予測が難しい」ので、帰国を希望するアメリカ国民は今すぐ準備をするよう呼びかけたのである。翌4月4日朝のNHKニュースは、アメリカ大使館が帰国準備を呼びかけた理由として挙げていたのは、まさに「PCR検査」のことであり、アメリカ大使館は、「日本政府が広範囲に検査を行なわないと判断しているため、どれだけ感染が広まっているか正確に把握することが難しい」と考えていると伝えていた。
検査に関しては欧米のやり方こそ一般的なものであり、日本のやり方は欧米から、世界の基準から外れた「ユニーク」なものとして受け止められていた。
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“資格”を得たうえでなければPCR検査を受けられないシステムが、我が国の医療への信頼を損ない始めていた。さらには、「積極的疫学調査」をベースとした肝心の検査体制自体が崩壊し始めている。それも、救急医療体制を道連れにして崩壊させながら。
ニュージーランドからの帰国後に発熱し、新型コロナウイルス感染が疑われる東京都内在住の40代女性が、PCR検査ができないまま救急搬送され、50カ所あまりの医療機関から治療を拒否された揚句、隣の千葉県柏市の病院まで運ばれた後、PCR検査で感染が判明する――という事例が報道されたのは、4月16日のことだった。
つまり、積極的な検査を拒む理由は、もはやどこにもない。新型コロナウイルスの流行拡大は、感染症以外のさまざまな病気の治療にまで悪影響を及ぼし始めている。ウイルスに感染しているとは知らず、別の病気で治療を受けていた入院患者が大規模な院内感染を引き起こし、地域の中核医療機関としての機能を丸ごと停止へと追い込んでしまった事例も、すでに筆者が当ニュースサイトで報告している。
特にショックだったのは、我が国有数のがん治療専門病院として知られるがん研有明病院(東京都江東区)のニュースだろう。手術を担当する看護師の新型コロナウイルス感染が4月19日に判明し、同僚のスタッフ約110人が自宅待機となったため、今後予定されていた手術の8割を当面減らすと報じられたのだ。これにより、早期がんの手術が先送りされ、重症化してしまうケースの発生も危惧される。これから手術を受ける予定だった患者やその家族が受けたショックは、それこそ計り知れないものがあるだろう。
新型コロナウイルスをめぐるこれまでの経緯を見る限り、現在のPCR検査のやり方に根本的な問題と誤りがあるとしか思えなくなってきた。4月20日付「朝日新聞デジタル」の記事で、医師で作家の鎌田實さんが、
「感染の初期においては、医療崩壊を防ぐためだった検査の抑制方針が、今は逆に医療崩壊を加速させています。スピード感を持って検査できるようにしないと、もはや院内感染は防げません」
と指摘していた。激しく同意する。事態が変われば、軌道修正すればいいのだ。
新型コロナウイルスの上陸に対し、どうやって立ち向かうのかという作戦を立て、実行してきた者たちの読みが甘かったのであり、その意味では、感染拡大に伴う「検査崩壊」や「医療崩壊」「救急医療体制崩壊」には人災の側面もあることを否定できない。
始まった「検査崩壊」の立て直し
そんななか、惨憺たる状況を打開する吉報も現れている。4月15日、東京都新宿区が、同区内にある国立国際医療研究センター病院や区医師会などと連携し、区民らがPCR検査を受けられる「区新型コロナ検査スポット」を設けると発表したのである。現在は、「新型コロナ受診相談窓口」や「帰国者・接触者相談センター」に検査相談の電話が殺到しており、速やかに検査につなぐことがまったくできていない。そこで編み出されたのが、この取り組みである。
地域のホームドクター(かかりつけ医)が「要検査」と判断すれば、自治体と地元医師会が立ち上げる仮称「PCRセンター」で検体を採取。PCR検査は民間の検査会社が担当し、センターから検査会社にわざわざ検体を運ばずに済むよう「PCRセンター」内に検査機器を設置。その検査結果はホームドクターから患者に伝えられる――という仕組みだ。検査結果はもちろん、保健所にも伝えられる。
新宿区では、国立国際医療研究センター病院の敷地内に「PCRセンター」を4月20日にも設置し、1日最大200人を検査できる体制を整えていく予定だという。医師や技師は区医師会や地元の各病院から派遣する。
保健所を介さない新たな「検査ルート」を立ち上げることで、現在はPCR検査とクラスターの追跡調査の両方を担当して職員が疲弊しきっている保健所の負担を減らし、「帰国者・接触者外来」が設けられている病院には重症患者の治療に専念してもらおうというのである。
PCR検査で陽性となった患者の入院先は、保健所と同センター病院、東京都が連携して調整し、重症患者は区内にある国立国際医療研究センター病院をはじめとした大病院に搬送。軽症患者は、都が借り上げたホテルや自宅で療養してもらい、そのケアは区医師会などで担当する。ようするに、患者の症状に応じて区内の医療機関で分担するわけだ。
東京都医師会では最終的にこの「PCRセンター」を、医師会のある都内47カ所に設置することを目指している。こうした取り組みが全国に広がり、「検査崩壊」が一日も早く解消され、立て直しに成功することを期待したい。日本における新型コロナウイルス検査が、ようやく世界の基準に沿ったものへと変わろうとしていた。
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新型コロナウイルスは、これまで検査したことも治療したこともなかった未知のウイルスであり、どのタイミングで検査するのが最適なのかも、まだよくわかっていない。悲しいかな、一度の検査で陰性の結果が出たとしても、ただちに感染を否定することにはならないというのが実態だ。となれば、わかっている事実をもとに対策を立てるほかない。
感染症とは人にうつる病気であり、PCR検査で陽性となった人からは、新型コロナウイルス感染症がうつる。詳しいことがわからないなら、その対応もシンプルにするほかないのである。その端的な例が、「外出自粛」や「人と会わないこと」なのだ。
専門家や学会のなかには、保健所を介した「検査ルート」に頑なに固執し、さらには軽症患者がPCR検査を受けることを「推奨しない」とまで言い切る者もいる。だが、軽症患者が検査を受けることでいったい誰が不利益を被るというのか。そもそも、ただでさえ人員不足に悩む保健所にこれからも負荷をかけ続けることに、問題はないと言い切れるのか。
この期に及んで自らの失敗を認めようとしない専門家のこうした姿勢は、“現在の危機は自分らが招いた人災でもある”という自身の責任をうやむやにしようとするものでしかない。
(文=明石昇二郎/ルポライター)