
ファナックの事実上の創業者である稲葉清右衛門名誉会長が10月2日、老衰のため死去した。95歳だった。通夜と葬儀は近親者で行った。後日、同社主催の「お別れ会」を開く。ファナックを一代で世界的企業に育て上げたカリスマ経営者だった。
30代で開発責任者に抜擢された稲葉清右衛門
富士通信機製造(現・富士通)に戦後、東京帝国大学工学部を卒業した2人の技術者が入ってきた。機械技術者の稲葉清右衛門と電気技術者の池田敏雄である。歴史上の人物に例えれば稲葉は家康型。池田は志半ばで倒れた信長型といえるかもしれない。
富士通は通信機だけでなく、コンピューターとコントロール(制御分野)に力を入れる。コンピューターの開発責任者は池田。稲葉は「制御分野で何をすればいいか考えてくれ」と申し渡された。同期入社の30歳前後のヒラのエンジニアに自由に開発を任せ、2人は、その期待に応えた。
池田の就業規則を無視した奇行は伝説化されている。何かアイデアを考え始めると、ひたすら考え続け、ついには出社することさえ忘れてしまう。夕方になって突然、会社に来て、今度は会社から帰らずに数日、考え続けたというエピソードは、あまりにも有名だ。日給制がまだ普通であった頃の話で、「これでは池田の給料は払えない」と困り果てた会社は、池田だけは月給制にしたという。
池田は、その天才的頭脳によって、国産コンピューターのパイオニアとなった。しかし、羽田空港で突然倒れ、51歳の若さで亡くなった。今日、池田は日本のコンピューター産業の父と呼ばれている。
一方、稲葉は、まったく新しいNC技術の開発に傾斜していった。稲葉が率いる開発チームは、本流の通信技術者たちからは変わり者の集まりと見なされ、「稲葉軍団」「稲葉一家」と呼ばれていた。
1956年、日本企業で初めて工作機械などの操作に使う数値制御(NC)装置を開発。日本の製造業の近代化を牽引する役割を果たした。後々、ファナックの社名となるFANUCがブランド名として採用された。
稲葉軍団は赤字に頓着せず、NC技術を磨くことに没頭した。62年、稲葉は社長の岡田完二郎に呼ばれ「経営の基本は利益をあげることだ」とカミナリを落とされた。将来を担う若手に目をかけてきた岡田は「稲葉は経営者に向いている」と判断したのだろう。一課長にすぎなかった稲葉に、経営のなんたるかを諭(さと)したのである。
ライバルの池田が率いるコンピューター部門は富士通の次の世代の柱として、日の出の勢いだった。池田は花形役者になったが、稲葉は田舎役者と見られていた。負けず嫌いの稲葉は、赤字部門を抱えて、社内で肩身の狭い思いをすることに堪えられなかったはずだ。