コロナ禍をきっかけに、米中の大手IT関連企業が、今後の経済成長に大きな影響を与えることが明確になった。投資家の期待がいかに高いか、世界の半導体関連企業などの株価上昇を見るとよくわかる。日本には米中のプラットフォーマーのようなスター企業は存在しないものの、IT関連の有力な部材企業がある。その一つが、半導体基板材料のシリコンウエハー最大手の信越化学工業だ。
信越化学は需要の高まりに対応するために、2022年までに国内と台湾でフォトレジスト(感光材)生産工場向けに300億円程度を投じ、生産能力を2割引き上げる。注目したいのは、同社が台湾工場の生産能力増強を重視していることだ。その背景には、スマートフォン向けを中心に、世界経済の半導体供給基地として台湾の重要性が増していることがある。
今後、世界経済のDX=デジタル・トランスフォーメーションは加速化するだろう。それによってシリコンウエハーやフォトレジストなど高純度の半導体関連資材の需要も高まるだろう。そうした変化に対応して成長力を高めるために、信越化学が国内外で機動的かつ相応の規模感をもって設備投資を行いつつ、最先端の素材関連技術を生み出し、実用化することの重要性は一段と増している。
ここへ来て成長期待高まる信越化学
コロナ禍のなかで、信越化学への成長期待が高まっている。それは、株価の推移から確認できる。世界の株式市場が底をつけた3月中旬から10月中旬までの期間、信越化学の株価は56%程度上昇した。同じ期間、TOPIX(東証株価指数)は26%程度の上昇にとどまっている。世界的に見て、日本全体での株価の戻りは鈍い。
日本全体での株価の上値の重さとは対照的に、同じ期間におけるGAFAM(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)をはじめIT先端企業が多く組み入れられている米ナスダック総合指数の上昇率は約63%だった。さらに上昇が顕著だったのがフィラデルフィア半導体株指数(SOX指数)だ。同期間、SOX指数の上昇率は約78%に達した。ナスダック総合指数やSOX指数の高い上昇率を支えたのがDXへの期待だ。
内外の株価推移をもとに考えると、信越化学の株価上昇は、日本企業のなかでも同社が世界的なDXに対応し、相対的に高い成長を実現するだろうという主要投資家の見方を反映している。日本経済にとって、信越化学はコロナ禍における有望企業といってよい。それは、信越化学に加え、SUMCOなど他の素材関連企業にも当てはまる。
成長期待の高い素材関連企業の存在は、日本経済がDXの加速化という世界経済の環境変化に対応しつつ成長を目指すために重要だ。なぜなら、日本には米国のグーグルやアマゾン、中国のアリババやテンセントなどの大手ITプラットフォーマーに比肩するIT先端企業が見当たらないからだ。
その一方で、データ送受信のスピード向上と容量の増大を可能にする5G通信の普及などによって、より高性能の半導体需要は高まるだろう。信越化学はそうした需要を取り込み、日本経済の成長を支える重要な有力企業の代表格に位置づけられる。なお、世界的なIT関連企業の株価上昇に関しては、世界的な低金利環境の継続が見込まれるなかで、IT先端企業の高い成長を過信する投資家が短期目線で関連銘柄を買い、株価上昇の勢いが押し上げられていることも忘れてはならない。
台湾での生産能力引き上げの背景
信越化学はフォトレジスト(感光材)の生産能力を国内で2割、台湾で5割引き上げる模様だ。注目したいのが台湾でのEUV(極端紫外線)に対応した感光材の生産能力の引き上げだ。
その背景の一つとして、スマートフォン向けを中心に世界の半導体需要が高まるとの期待がある。現在、世界のスマートフォン市場のシェア構造は大きく変化し始めた。特に9月15日に米商務省が制裁を発動した結果、中国ファーウェイのスマートフォン事業は苦境に陥った。同社は低価格帯のスマートフォンブランドである「オナー」事業の売却を目指しているようだ。ファーウェイがスマートフォン事業から撤退するのではないかと考える世界の主要投資家も増えている。
ファーウェイの苦境は、韓国のサムスン電子、米アップル、中国シャオミにとってシェア拡大を目指す絶好のチャンスだ。7~9月期の決算でサムスン電子はファーウェイのスマホシェアを取り込んで増益につなげた。また、米アップルは5G対応版のiPhone12を発表し、シェア獲得を目指している。国境をめぐって中国とインドの関係が冷え込んでいる。その状況は両社がインド市場でのシェア獲得を目指すためにも重要だ。中国のシャオミは欧州市場を中心にシェアを獲得し、スマートフォンの生産計画を積み増している。低価格機種を中心に強みを発揮してきた中国のオッポも増産を進めている。
もう一つの要因は、スマートフォンの増産などによって半導体受託製造大手である台湾のTSMCの供給能力の重要性が高まったことだ。微細化技術を用いた生産ラインの確立でTSMCは世界をリードし、売り上げは増えている。同社にとって重要なことは、需要拡大に対応しつつ、生産ラインの安定稼働を実現することだ。昨年、TSMCでは感光材の品質不良から5億ドル(525億円程度)の損失が発生したが、同じ展開は許されない。
TSMCにとって信越化学が供給する高品位の感光材の重要性は一段と高まっているだろう。信越化学が台湾での生産能力引き上げを目指しているのは、TSMCへの納入を増やし、シリコンウエハーだけでなく感光材市場でのさらなるシェアの獲得のためといえる。
最先端分野での基礎技術強化の重要性
このように考えると、米中対立の先鋭化とコロナショックが同時に進んだ結果、高純度かつ高付加価値の素材を製造する信越化学の技術力の高さが、これまで以上に明確になったといっても過言ではない。信越化学が国内で行ってきたEUVに対応した感光材の生産を台湾で行おうとしているのは、同社の競争力の高さを象徴する動きだ。日本の輸出管理制度の厳格化に直面した韓国はフッ化水素などの国産化を進めているが、「イレブンナイン(99.999999999%)」と呼ばれる高純度のフッ化水素や感光材に関しては、依然として日本企業からの調達が重視されている。高純度かつ微細なモノを生み出す力を磨いてきた信越化学は、日本経済の宝だ。
信越化学をはじめ、国内素材メーカーに期待したいのは、最先端かつより微細な高付加価値の素材開発力を高めることだ。今後の展開を考えた時、不確定な部分は多いもののコロナショックの影響に関しては、ワクチン開発の実現などとともに徐々に解消に向かう可能性がある。しかし、世界経済のデジタル化は止まらず、加速化する。それに加えて、11月の米大統領選挙後もIT先端分野をはじめとする米中対立は激化する可能性がある。そのなか、中国企業は海外企業からの技術の強制移転や国家資本主義体制の強化による研究開発体制の整備などを進め、かなりのスピードで製造技術の強化を図り半導体の自給率向上を目指すだろう。
日本企業が米中による技術の奪い合いに対応しつつ、世界経済のDXを追い風にするためには、模倣できない基礎技術の確立が欠かせない。つまり、分解しようにも、分解できないほど微細なモノを生み出す力を高めることが、日本企業が米国からも中国からも必要とされる存在を目指し、持続的な成長を実現するために重要だ。
そう考えると、信越化学のシリコンウエハーや感光材事業は、今後の世界経済の中で日本が存在感を発揮するために無視できない影響を与える。同社が研究開発体制を強化し、世界の最先端を行く微細な素材を創造することを期待したい。
(文=真壁昭夫/法政大学大学院教授)