信越化学工業は、世界の電気自動車(EV)シフトを成長の加速につなげようとしている。2018年に発表した投資計画で同社はシリコーン事業に1,100億円を投じ、国内とタイで生産能力を1.5倍に引き上げた。しかし、世界的なEVシフトによる需要拡大ペースは想定を上回っている。シリコーンなどの需要は急増し、供給が追いつかない。急拡大するビジネスチャンスを確実に手に入れるために、同社は800億円超の設備投資を行って生産能力をさらに強化する。
ポイントは、今回の設備投資が主に国内で行われることだ。EVのモーターなどに蓄積される熱を解放する高機能素材の分野で、信越化学が国内で磨いた製造技術は簡単に海外で再現することができないようだ。デジタル化の進展、脱炭素によるEVシフト、さらにはメタバースなど世界経済の環境変化は激化している。それによって新しい素材創出のニーズは世界全体で急速に増加する。今回の設備投資は、信越化学が模倣が困難な素材の製造技術に磨きをかけて、より優位に先端分野の需要を取り込もうとする決意表明といって良いだろう。同社が素材の製造技術を磨き、高い成長を実現することを期待したい。
好調な業績をひた走る信越化学
デジタル化の加速による半導体需要の増加やEVシフトを追い風に、信越化学の業績が拡大している。2021年4〜12月期の累計決算は増収増益となった。投下資本利益率(ROIC)は前年同期から9.5ポイント上昇して25.9%(年率換算)だった。
セグメント別にみると、生活環境基盤材料事業では、米国の旺盛な住宅需要などに支えられて塩化ビニル需要が急増した。需要に対応するために、信越化学の米国拠点は工場の定期修理を延期した。電子材料事業でもフル操業が続いている。世界的な半導体不足は当面続く。半導体の基盤として用いられるシリコンウエハやフォトレジスト、封止剤など非常に純度の高い(高付加価値の)素材需要は増加している。
一部の拠点では感染再拡大などの影響によって事業運営に支障が出たが、同社は世界からの旺盛な需要に応えた。シリコーンなどを生産する機能材料事業では、原料のケイ素価格の高騰に直面しつつも、製品価格を引き上げることで増収増益を実現した。なお、シリコンウエハのシリコン(Silicon)と、放熱剤として用いられるシリコーン(Silicone)は異なる。シリコーンはケイ素から作られる人工化合物のことをいう。
世界的なサプライチェーンの寸断などを背景とするコスト増加に対応するために、同社は塩ビなど複数の製品で値上げを実施した。それでも捌ききれないほどの需要が舞い込んでいる。世界各国の企業にとって信越化学の生み出す素材には、他の企業にはない価値がある。高い製造技術に裏付けられたブランド競争力が値上げによるコストの吸収と事業運営の効率性向上を支えている。
それは、日本企業に大きな示唆を与える。信越化学は、よりよい素材、新しい機能を持つ素材を、顧客のニーズに的確に合致したレベルで生み出す力を磨いてきた。それがあるからこそ、世界の企業は信越化学の製品は高付加価値であるとみなしている。それがなければ複数回の値上げ実施は難しい。世界から必要とされる素材の製造技術を実現することによって、信越化学は環境の変化に対応して長期の成長を実現している。
ここへ来て需要が急増するEV関連素材
現在、世界的なEVシフトの急加速によって信越化学のビジネスチャンスが拡大している。具体的には、EVの放熱剤として用いられるシリコーンの需要が急増している。走行距離の延長などEVの性能には、バッテリーやモーターとインバーター、ギアボックスを一体化したeアクスルなどで発生する熱を逃がさなければならない。そのためには純度が高いことに加え、さまざまな利用目的にあったシリコーンを製造する力が求められる。
信越化学はそうしたEV及び部品メーカーの要望を満たす製造技術を持つ。具体的に、信越化学が手がけるパッドや硬化型のシリコーンはEVバッテリーの放熱に用いられる。また、柔らかいグリース状のシリコーンは振動のかかる車載部品の放熱に使われる。世界各国でEV生産に参入する企業は増えている。かなりの量の多様な仕様に基づいたシリコーンの注文が信越化学に入っているだろう。
急増する放熱材の需要に対応するために、信越化学はシリコーン生産能力を引き上げる。そのポイントは、主に国内で設備投資が実行されることだ。脱炭素の加速によって世界経済の運営体制は大きく変わり始めている。その一つがEVなどの地産地消だ。欧州では炭素の国境調整や、製品のライフサイクルアセスメントの導入が目指されている。自動車などの生産は最終消費地に近い場所で行われるケースが増えるだろう。
そうした展開が予想されるなかにあっても、信越化学は国内の生産能力を強化する。同社の製造技術は海外で再現することが難しいと考えられる。塩化ビニルやシリコンウエハなどにも共通するが、機械と異なり素材は分解してその仕組みをコピーすることが難しい。国内でシリコーンの生産能力を強化することによって、信越化学はさらに微細、かつ複数の用途に柔軟に対応できる素材の創出能力を高めようとしていると考えられる。また、世界的な物価上昇圧力が高まっているなかで同社が設備投資を積み増すことも見逃せない。それは、EV関連素材の需要は今後も増加し、国内で設備投資を実行することによってより有利にシェアを獲得することが可能という経営陣の自信の表れといっても過言ではないだろう。
日本経済にとって重要性増す素材創出力
日本にとって、信越化学の製造技術は経済の安定と成長を実現するために一段と重要性が高まる。同じことは他の国内素材メーカーにも当てはまる。1980年代半ば以降に激化した日米半導体摩擦、その後の国際分業の加速などによって、日本の電機産業の競争力が失われた。脱炭素を背景とするEVシフトは、すり合わせ技術を磨いて内燃機関の製造に強みを発揮してきた自動車産業に逆風だ。自動車産業全体でEVシフトへの対応は遅れている。日本のデジタル化の遅れも深刻だ。どうしても国内経済の停滞懸念は高まりやすい。
そうしたなかにあっても、信越化学はひたむきに新しい素材を生み出す力を磨き、成長を実現している。海外の素材メーカーもシリコーンをはじめEV関連素材の供給能力を引き上げているが、現時点で信越化学の製造技術に対する世界からの信頼に揺るぎはないようだ。
同社が日本経済の実力向上に与えるインパクトは高まっている。特に、素材の創出力は、新しい発想の実現に無視できない影響を与える。EV以外にもメタバースに必要な次世代の高速通信や仮想現実(VR)、拡張現実(AR)を実現する機器の開発や、二酸化炭素や大気汚染物質の吸着素材など、世界経済の最先端分野で新しい素材の需要が急拡大するだろう。信越化学がそうした急速な事業環境の変化にしっかりと対応する事業運営体制を確立しようとしていることは、世界経済における日本の存在感に大きく影響するだろう。世界から必要とされるモノやサービスを供給することが、経済の成長に欠かせない。信越化学の素材創出力はそれを支える重要なピースだ。
信越化学の営業利益率は、世界の大手素材メーカーの平均的な水準を上回る。コロナ禍が発生した後も、同社の利益率は上昇傾向を保った。今後はEV関連素材の需要拡大によってさらなる収益の獲得が目指されるだろう。得られた資金を同社経営陣がより高付加価値の素材創出力の強化や新しい生産ラインの設置に再配分し、長期にわたって成長を実現する可能性は高いと考えられる。
(文=真壁昭夫/法政大学大学院教授)