チェルノブイリ原発で「汚い爆弾」製造説
ロシア軍が、隣国ウクライナの原発を何の前触れもなく攻撃し、占拠・強奪してから1カ月が過ぎた。3月19日付の共同通信電によると、ウクライナの原子力企業「エネルゴアトム」のペトロ・コティン総裁代理は共同通信の取材に対し、ウクライナ最大規模のザポリージャ原発には約500人のロシア兵と約50台の軍用車両が居座っていると明かした。コティン氏は、ロシア軍が同原発に居座り続けている理由として、
「原発にとどまっていれば、ウクライナ軍から攻撃を受けずに済む」
と説明したのだという。人質を取って立てこもる凶悪犯と、さして変わらない。
ザポリージャ原発には全部で6基あり、いずれも出力100万キロワット。つまり総出力は600万キロワットである。これほどの電力がいきなり使えなくなれば、ウクライナの市民や企業等が受けるダメージは相当なものになる。つまり、ロシア軍が籠城を続けているのはウクライナへの“嫌がらせ”以外の何ものでもない。
しかしわからないのは、ロシア軍はウクライナ北部にあるチェルノブイリ原発まで占拠していることだった。ご存じのとおり、チェルノブイリ原発は1986年、4号機が国際原子力事故評価尺度(INES)で最も深刻な「レベル7」の大事故を起こし、事故後も発電していた1~3号機も2000年までに発電を停止。同原発では現在、発電をしていない。
チェルノブイリ原発を占領した後、10日ほどしてロシアの国営メディアは、ウクライナはチェルノブイリ原発で、放射性物質(=放射性廃棄物)をまき散らす目的のいわゆる「汚い爆弾」(ダーティー・ボム)を製造しようとしていたと報じたのだという。そしてチェルノブイリ原発を攻撃したのは、この「核兵器疑惑」があったからだとしていた。
ただ、この「疑惑」を裏付ける証拠は、これまでロシア政府やロシア軍から一切示されてはいない。それに、「汚い爆弾」自体は核爆発を起こすものではなく、それを「核兵器」と呼ぶかどうかは大いに議論の余地があるところだろう。
そもそも、その「汚い爆弾」でウクライナはいったいどの国を、どうやって攻撃するというのか? そしてそうすることで、ウクライナはどのような“戦果”を得られるというのか?
ウクライナが「汚い爆弾」でロシアを攻撃する恐れがあると、ロシアのウラジミール・プーチン大統領が本気で考え、恐れていたのだとすると、それはパラノイア(被害妄想)のそれであり、大変危険な精神状態だと言える。降って湧いたような、荒唐無稽であること極まりない言い訳だけに、ひょっとしてプーチン大統領はパラノイアなのではなく、チェルノブイリ原発がすでに発電していないことを知らずに同原発への攻撃命令を下した――とも考えられそうだ。あるいは、悪意ある手下に騙され、チェルノブイリ原発ではまだ発電していると思っていた可能性もある。
原発攻撃を「正当化」するロシアの言い分
ウクライナ国内には、4カ所に計15基の原子炉がある。しかし、チェルノブイリ原発とザポリージャ原発を攻撃・占拠した以降、ロシア軍が他の原発を占拠したとの報道はない。その理由を考えていた矢先の4月2日、朝日新聞が前出の「エネルゴアトム」ペトロ・コティン総裁代理の話として、南ウクライナ原発をはじめとした他の原発もロシア軍の攻撃を受けているものの、ウクライナ軍の激しい抵抗で支配を免れており「他の原発がロシアの管理下に置かれる可能性は現状では低い」と報じた。
先に当サイトで書いた拙稿では、ロシアは原発への攻撃が国際法(ジュネーブ諸条約)上の禁じ手であることを承知の上で、原発を攻撃した問題について指摘した。
では、ロシアはジュネーブ諸条約を批准しているにもかかわらず、なぜウクライナの原発を攻撃したのか。これまでの報道を通じて紹介されている、ロシア政府が「原発への攻撃を正当化」している理由には、次のようなものがある。
・「ロシアの主張」として
「原発の使用済み核燃料や高レベルの放射性物質をウクライナが核兵器に転用する恐れがある」
・ロシアのネベンジャ国連大使
「ロシア軍による(原発への)攻撃だというのは、全くのうそだ」
「(原発制圧は)ウクライナのテロリストが核で挑発しないようにするためだ」
「ウクライナの工作員が(原発の)施設に火をつけた。ロシアが原発を攻撃したという、うそは偽情報によるキャンペーンだ」
・プーチン大統領
「ウクライナは今、核保有国としての地位の獲得、つまり核兵器の取得まで口にし始めた。我々はそれを見過ごすわけにはいかない」
「ザポロジエ(ザポリージャ)原発への攻撃はウクライナ側の挑発行為」「責任をロシア軍に押し付ける試みはプロパガンダだ」
「(チェルノブイリ原発をロシア軍が制圧したのは)ウクライナの『ネオナチ』や『テロリスト』に挑発行為をさせないため」
「恐れがある」と主張するか、あるいは「挑発行為をさせない」と一方的に決めたことを理由に、他国にある稼働中の原発への攻撃が正当化できるのだとしよう。すると、今後ロシアは欧米にあるどの原発に対しても、同様に難癖をつければ攻撃を加えられることにもなる。むろん、日本の原発もその例外ではない。さらに言えば、当のロシアの原発も同様の理屈で他国から攻撃を受けることになる。なにせ「恐れがある」と主張するだけでいいのだから。
つまり、ロシア政府が語る「正当化」理由は、原発への攻撃をなんら正当化できるものではなく、ジュネーブ諸条約違反を免れることもできない。ところで、同条約に違反した国にはどんな罰則や制裁が科せられるのだろう。
国連やジュネーブ諸条約では原発への攻撃を防げない
となると、今後を占う上でカギを握るのは「ジュネーブ諸条約」の実効性である。著しいジュネーブ諸条約違反行為が行なわれた場合、同条約の追加議定書第90条により、常設の国際事実調査委員会が活動する定めとなっている。事実関係を調査するためだ。この調査委には、日本からも委員が参加している。そこで、日本で「国際事実調査委員会」を所管する外務省人権人道課に訊いた。
※
――外務省のホームページにある「国際事実調査委員会」のページを拝見しました。
「事実調査委員会の例として、2017年にあったウクライナでのOSCE(欧州安全保障協力機構。Organization for Security and Co-operation in Europe)の特別ミッション【注】があります」
【注】2017年4月、ウクライナの非政府管理区域で、OSCEの特別監視ミッションの装甲車がパトロール中、爆発に巻き込まれ、1名が死亡し、2名が負傷した事件。爆発は対戦車地雷によるもので、事実調査委員会は、民間が交通に使用する道路に地雷を設置することは国際人道法上、無差別かつ違法な地雷の使用であると結論づけていた。
「ですけど、逐一すべての紛争を調査していることはなくて、そもそもこの事実調査委員会で調査した例が非常に少なく、恐らくこのウクライナの一例だけなんですね」
――え、そうなんですか?
「はい。イメージだと、いろんなことを調査しているかのようですけど、紛争当事者の同意がない場合や、そもそも要請がない場合では、調査自体行なっていない。ウクライナで今、起こっていることでも、調査をやっているとは承知していないです」
――ようするに、戦争中だから?
「そうですね。今の場合、ジュネーブ諸条約で『紛争当事者』となるのは、ウクライナとロシアになると思います」
――例えばウクライナが調査を要請したところで、ロシア側が拒絶をすれば、事実調査委員会としての調査はできないのですか?
「規定によれば、できないですね。そもそも、要請があるとは承知していません」
――ロシアによるウクライナ侵攻では、ジュネーブ諸条約を蔑ろにする行為がさまざま指摘されていますが、なかでも2つの原発への攻撃がジュネーブ諸条約違反だと認定された場合、どういう処罰やペナルティがロシアに課せられるのでしょう?
「それは今後の議論なんだと思いますけれども、例えば国際刑事裁判所で裁いていくのか、もしくは違う法廷で裁くのかは、今後議論されていくのかなと」
――ウクライナはすでに国際刑事裁判所に申し立てているようですね。
「そうですね。まさに調査を開始しているところです」
――ジュネーブ諸条約では原発への攻撃を明白に禁じています。しかし、同条約を批准している国の中から、攻撃をやってしまっている国が現れた。現実問題として、ジュネーブ諸条約は「原発への攻撃」の歯止めになっていません。
「そうですね。そもそもジュネーブ諸条約においては、攻撃は軍事目標に限定すると言っていまして、民用物は攻撃対象にしないと。その民用物の中でも、原子力発電所、ダムといったところはさらに特別に保護されている。(ジュネーブ諸条約が)歯止めになっている、なっていないというのは、どう判断するのかはなかなか難しいところではあるのですけれど、例えば国連総会の決議ですとか、人権理事会で決議を通して国際人道法を順守するようロシアに呼びかけたりはしていますね」
――でも悲しいかな、具体的な歯止めとはなっておらず、原発の占拠が続いています。
「実際、ロシア側が何を考えているのか、我々は承知しておりませんので、歯止めになっていないという見方ももちろんありますし、もしかしたら一定の歯止めになっているという見方をする方もいるかもしれない。ただ現状で、民間人が攻撃されているので、そこは厳しく政府としても批判はしています」
――要するに、現在ロシアが行なっているような、大っぴらなジュネーブ諸条約破りを想定していなかったわけですよね? 条約を批准している国であって、しかも国連の常任理事国が、あからさまに条約を破るということを。
「シリアでもジュネーブ諸条約違反との指摘がありましたので、これまでそういったことが全く起こっていなかったかというと、そうではないのかなと思います。そもそもウクライナの東部紛争自体は2014年から続いていて、ジュネーブ諸条約という文脈は常に出続けておりました。今回2022年に始まったからといって、こうした議論が急に出てきたわけではない。たまたま今回はメディアが大きく取り上げていますけども、ジュネーブ諸条約違反は、国連総会や人権理事会などでいろいろな国に対し、決議で言及しております。当事者(当事国)が自制するよう、引き続き呼びかけていくということなのかなと思います」
――何もウクライナに限らず、原発を持っている国というのは、我が国を含め、いっぱいあるわけですが、実際に原発を攻撃する国が出現し、しかもジュネーブ諸条約違反にも問われないとなった場合、かなり恐ろしい事態になります。
「いずれにせよ、紛争が落ち着いてこないと、調査自体がなかなかできないと思います。2017年のウクライナ調査の際は、もちろん紛争は続いていましたが、限られた地域で散発的に行なわれていたので、比較的自由に調査で動ける状況でした。今のような状況では、なかなか民間の調査員が行くのは難しい」
――身の危険もあるでしょうし。
「おっしゃるとおりです」
――絵に描いた餅とは言いたくありませんけど、条約で明確な規定があったとしてしても、どうせ何もできないだろうと、ロシアが舐めてかかっているように思えてなりません。
「そういう意見もあるとは承知しております。まさに攻撃を止めさせるために何をやるのか、日本も含めG7や国際社会で何とかしようとしているところです」
※
残念ながら今の国連やジュネーブ諸条約では、原発への攻撃を防げないことが判明してしまった。
原発を廃止するか、それともプーチン“王制”を廃止するか
ルールを守るつもりがない奴は、どんな時代にもいる。どれほど厳格なルールであっても、どれほど厳罰を用意していても、破る奴は破るということなのか。実際、私たちはそんな時代を生きている。
ところで3月31日、チェルノブイリ原発を占拠していたロシア軍の大半が、同原発から撤退し始めたと、報道各社が一斉に報じた。さらには、同原発を占拠していたロシア兵たちは防護服を着用せずに高濃度汚染地域を戦車や装甲車で走り周り、きわめて危険な量の被曝に晒されていたとする報道も現れる。兵士を危険に曝してどんな“成果”があったというのだろう。
果たして、ロシアが主張していた「汚い爆弾」製造説や「ウクライナの『ネオナチ』や『テロリスト』による挑発行為」説は払拭されたのだろうか。ただ、もう一方のザポリージャ原発にはロシア軍がまだ居座り続けている。
本稿の冒頭で挙げた仮説のように、チェルノブイリ原発からの撤退を決めた真の理由が、チェルノブイリではすでに発電していないことがわかったから――だとすれば、これほどバカげた話はない。いずれにせよ、ロシアのプーチン氏が語る「特別軍事作戦」とは、相当ずぼらなものであることは間違いなさそうだ。
国際社会の圧力では、原発への攻撃を防げないのなら、もはや選択肢は2つしかない。一つは、原発への攻撃を安直に命令するような為政者を、権力の座から永久に追放することであり、それが無理なら、電源としての原発を廃止して、攻撃の的にされる危険があるものをなくしてしまうことである。
(文=明石昇二郎/ルポライター)