俳人・小林一茶はいつも孤独だった。
3歳で実母を亡くし、継母によって15歳のときに生家を追われ、江戸で奉公することになる。極貧の生活を過ごし、52歳で結婚したが、相次ぐ妻子との死別によって再び独りぼっちになる。最後は大火で母家を失い、土蔵暮らしのなか、65歳の生涯を閉じる。平均寿命が36歳だった時代に65歳まで生きた一茶は今に置き換えれば90歳以上の長寿を全うしたといえる。
人は長生きすればするほど、病いや近しい人との死別などの苦しみを背負うことになる。これは「人生100年時代」とされる現代にも通づるところがあるだろう。
苦しみの中でこそ、人間は試される。一茶は貧しさ、揉めごと、病気、老い……すべてを俳句にして楽しんだ。
52歳まで独身 小林一茶にみる「孤独との付き合い方」
『楽しい孤独 小林一茶はなぜ辞世の句を詠まなかったのか』(大谷弘至著、中央公論新社刊)では、つらいことばかりが多い人生と向き合い、世間という荒波の中でどのように暮らしていけばよいのか、一茶の生涯をたどり、彼が遺した俳句を味わいながら、生きるヒントを探る。
一茶が生きた時代はけっして平穏ではなく、一茶自身の境涯も円満なものではなかった。そうした人生を生きていくうえで、悩み、苦しみ、喜んだことを率直に俳句にしようとした。継母に虐待を受け、長男でもあるにもかかわらず15歳で故郷を追われた少年は、25歳で突如俳壇に「一茶」となって現れる。この10年間のことは、日記にもほとんど何も書き残していない。
この空白の10年間で、のちに生きていくための大切なことを学び手に入れたのではないか、と本書の著者であり俳人の大谷弘至氏は考える。25歳で葛飾派の俳諧宗匠の素丸の内弟子になっていたことから逆算すれば、この10年の間で俳句の腕に磨きをかけて、その存在が俳句宗匠たちの目にとまったと思われる。
今でこそ俳句は五七五を一人で完結させるものだが、当時は宗匠を囲んで「座」を設け、同門の俳人が集い連句を巻くものだった。五七五と七七を交互に三十六句連ねた連句を歌仙という。この参加型の文芸エンターテインメントであった歌仙で頭角をあらわした一茶は、多くの人と繋がり、その縁は師弟の関係を生み、一生の友だちと出会うことになる。
52歳で結婚するまでずっと「おひとりさま」だったが、俳句と出会ってからは孤独ではなかった。そして、日本中を旅し、その旅の先々に俳句で結ばれた人々がいて、温かく迎えられる。俳句の「座」とは、現代に置き換えれば、ソーシャル・ネットワークのようなものだったかもしれないと大谷氏は述べる。
一茶が抱えていた孤独を楽しいものに変えたのは俳句だった。人間関係で疲弊し、孤独を深め、誰もが経験することになる「老い」をどのように生きるのか、は現代人の生きる上でのテーマでもあるだろう。一茶の孤独や老いとの向き合い方は、老いを楽しく生きるヒントになるはずだ。(T・N/新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。