宇宙飛行士は、宇宙でカレーもラーメンもサバ味噌も食べている
いいかげん、疲れてくるわけですよ。
「年収10倍」とか「大富豪がかくかくしかじか」とか、「ナントカが9割」とか「ホニャララる勇気」とか、「なんちゃら思考」とか「あーだこーだ戦略」とか、「絶対儲かる!」とか「成功する!!」とか、タイトルでそういった煽りをカマすような本はもうね、正直お腹いっぱいなワケです。
編集者・ライター稼業を営みつつ、“お気楽系ビジネス書ウォッチャー”なんて名乗ったりもしているので、主にビジネスパーソンを中心読者に想定したであろう書籍をこまめにチェックし、とりわけビジネス書・自己啓発書界隈を生温かく観測し続ける日常を送っております。
まあ、自分の興味関心事でもありますし、いまでは仕事でもありますから、そうした営みに不満はございません。むしろ喜びや、やりがいを覚えてもいるくらいです。
ただ、皆さまご承知の通り、ビジネス書の中には香ばしい内容のものもたいへん多くございまして、読んでいるだけでモヤモヤしたり、ムズムズしたり、クラクラしたり、イライラしたりするような、破壊力抜群の本も少なくないのですね。タイトルだけで嘆息が漏れ、キラキラ笑顔の著者近影が帯に出ているだけで裏返したくなる──まあ、そういう本や、ビジネス書作家も存在するのです、個人的に。
ときには、そうした香ばしい本にツッコミを入れるべき役どころの僕が、つい疲れていたりすると、うっかり取り込まれそうな──ミイラ取りがミイラになりそうな──瞬間を経験することもあるので、油断なりません。
要するに何が言いたいかというと、偏った読書をしているとロクなことにならない、ということだったりします。いろいろなジャンル、斬り口の本に触れてバランスを取らないと、自分の得意領域に関連した本であっても食傷気味になったり、視点が偏ってしまったり、著者に半ば洗脳されてカモにされたりする可能性がある。平たく言うなら、疲れる読書、つまらない読書なんて繰り返すのは不健康だし面白くないよね、ということです。
非常にレアな一冊
はい、またぞろ前置きが長くなりましたが、いいかげん本題です。今回紹介する『宇宙食 人間は宇宙で何を食べてきたのか』は、極めて良質な雑学知識を提供してくれる一冊であり、胡散臭い自己啓発系ビジネス書の毒気に触れて荒みきってきた僕の心をリセットしてくれる、一服の清涼剤となった本です。
もともと、航空・宇宙の領域には関心がありました。といっても、理系的な視点でゴリゴリと攻めるのではなく、文系でも理解できる範囲でロマンを感じ、胸躍らせるレベルの傾倒ですが。
幼稚園のころ、加古里子(かこ・さとし)先生の科学絵本にドップリとハマリ、なかでも福音館書店の『宇宙』あたりは穴が開くくらい凝視し、熟読した記憶が鮮明に残っておりまして、大人になった今でも、飛行機、ロケット、宇宙船、人工衛星あたりを見るとワクワクしてしまうのであります。それらに関係したマメ知識や雑学について読んだり聞いたりするのも、テンションの上がるひとときなのです。
加えて「食」も、これまた非常に興味関心の深いジャンルです。これは、僕の締まりのない体型が雄弁に語っていると思うので多くは述べませんが、つまりは「宇宙食」というキーワード、僕にとっては「ラーメン」「パンケーキ」「寿司」と同じくらい血湧き肉躍る響きであり、その魅力や秘密をより深く、細かく理解したいトピックなのであります。
ところがこの宇宙食、意外に文献が出ていないのです。宇宙関連のQ&Aや小ネタをまとめたようなウェブサイトほか、ムックなどでも、かなり高頻度でネタにされるトピックですし、身近な営みだけに一般人にも受け入れやすく、関心も高い宇宙関連の話題だと思うのですが、こと宇宙食だけにフォーカスした本は、ほとんど刊行されていない模様。なので、本書は非常にレアな一冊といえるでしょう。
探検だからこそグルメでなければならない
人類初の宇宙飛行士である旧ソ連のユーリ・ガガーリン少佐は、宇宙で食事をしなかった(飛行時間が2時間弱と短かったため)話題から、本編がスタートする本書。全体で115ページとコンパクトで、ちょっと厚めの小冊子的な佇まいです。なので、とても手にしやすく、どこから開いても興味深く読むことができます。たとえば、国際宇宙ステーション(ISS)で働く宇宙飛行士たちは、1日に何キロカロリーを摂取しているのか。「ISS Food Plan」に記載されている基準は、
男性
18~30歳=1.7×(15.3×体重<kg>+679)(kcal)
30~60歳=1.7×(11.6×体重<kg>+879)(kcal)
女性
18~30歳=1.6×(14.7×体重<kg>+496)(kcal)
30~60歳=1.6×(8.7×体重<kg>+829)(kcal)
という計算式なんだとか。それを受けて、次のような説明が続きます。
「この式で、体重60kgの40歳代男性飛行士に当てはめてみると、2,678kcalとなる。ちなみに、厚生労働省が決めた日本人の食事摂取基準で、同年代の男性のカロリー必要量は、身体活動レベルII(普通)で、2,650kcalと全く同等である。つまり、宇宙においても、カロリー必要量は地上と全く変わらないのである」
こんな調子で、宇宙食に関するさまざまなマメ知識が端的に解説されていきます。率直なところ、文章自体にはまったく色気も、シズル感もないのですが、そもそも版元は自然科学系統の専門書や学術書を中心に手がけているところですし、著者も学者の先生なので、そもそもケレン味を求めるほうが間違いでしょう。いや、視点をかえるなら、ここまで平坦な雰囲気に支配された本なのに、飽きずに読み進めてしまうほどの訴求力が宇宙食には隠されていたのだ、てなこともいえるのではないでしょうか。いかにも学術書っぽい、てらいのない表紙に怖じ気づいてはいけません。
人類は宇宙で食べものをちゃんと飲み下すことができるのか──それすらわからない状態だったので、黎明期の宇宙食は錠剤やチューブ入りのものばかりだったそうです。そんな状況が大きく変わったのは、人類を月に送り、無事に帰還させたアポロ計画から。フリーズドライやレトルトパウチといった食品保存技術が惜しみなく投入され、メニューも豊かになっていきます。「探検のときも、食事には気を配る。探検だからこそグルメでなければならない」というアメリカ人の考え方が書中に登場しますが、深く首肯してしまいました。
食品加工技術の発展にも寄与
実は宇宙食は、我々の日常生活にも大きくかかわっています。市販されているフリーズドライ食品やレトルト食品には、宇宙食の開発時に発展した技術が反映されているのだそう。さらに同じ文脈で、アポロ計画で導入され、以降の宇宙食開発でも用いられている加工食品の製造手法「HACCP(Hazard Analysis and Critical Control Point=危害分析重要管理点)」について、本書はこのように解説します。
「加工食品を原材料から製造するときには、衛生的につくらなければならない。衛生的につくられたかどうかを検証する手段として、従来は、抜き取り検査という手法を用いている。(中略)つまり、全数を検査しているわけではない。宇宙食ではそれでは不安が残る。そのためにHACCPという手法を開発した。(中略)現在では、多くの加工食品製造に活用され、人々の生活に役立っている。
HACCPとは、簡単にいえば、食品の加工の段階、すなわち原料から製造・調理・製品までの各段階を衛生的に管理して、製品の衛生性を確保する手法である。まず、各段階で、どのような処理を行えば、どう衛生性に影響が出るかを確認して、衛生性が確保できるように食品を処理する。たとえば、レトルト食品の場合、加圧加熱処理を120℃、4分間の処理が衛生性を確保するために必要な条件であり、全製品にこの条件の処理を行うのである。(中略)市販の食品でもHACCPを導入することは、衛生性を確保した商品の生産に適することから取り入れる企業が増えている。厚生労働省でも、企業に導入を勧めている」
こうした食品加工・保存技術の粋を集めた宇宙食は、たとえば“災害食としての活用”といったアングルでも注目されつつあるようです。宇宙食は長期保存が前提なので備蓄に適しており、栄養価としても十分で、食べやすさや味付けにも多彩な創意工夫が施されているから、誰が食べても満足感がある、といった具合。「難点は、価格が今のところ高いことである。これも、災害食としての利用が広まれば、低減することが可能であろう」と書中で述べられているので、期待したいところです。
また、介護食としても可能性があるとか。介護食は食べやすいことが極めて重要なわけですが「宇宙食は、無重力空間での喫食を前提としているので、寝たりの状態でも喫食が可能」なのですから、これは大きなメリットです。「寝たきりになってもカレーやラーメンを楽しめる」という一文にも、妙に励まされてしまいました。
良い仕事をするには、まず良い食事から
現在、ISSではさまざまな国の宇宙飛行士が暮らしています。そこで食べられている宇宙食の中心は、アメリカとロシアのもの。でも、フランスやイタリア、カナダといった国々は、それぞれの食文化を反映した独自の宇宙食を自国の宇宙飛行士向けに開発して、ISSに供給しているそうです。
日本も、独自の宇宙食開発に意欲的に取り組んでおり、「宇宙日本食」は日本人宇宙飛行士だけでなく、外国の宇宙飛行士にも好評と聞きます。本書では、宇宙日本食のメニューの数々が写真や寸評、内容量、カロリーなどとともに紹介されているのですが、おにぎり、カレー、ラーメン、サバの味噌煮といった“庶民の味”ばかり取り揃えられていることに気づきます。
「日本食というと、寿司とか天ぷらをイメージするかもしれない。しかし、宇宙日本食では、今のところ採用していない。その理由は、宇宙日本食は、日本の家庭の日常の味を目指したからである。日常、家庭で毎日、寿司や天ぷらを食していまい。日本人が最も好む家庭の食事はカレーにラーメンではないか。ならばこれらを宇宙食とすることを目指したのである」
食事が楽しみになるような、ホッと一息つけるようなメニューを用意することで、宇宙飛行士に食事の間だけでもリラックスしてもらう。そんなホスピタリティの精神すら、最近の宇宙食には企図されているのですね。食事に満足できれば、精神的にも落ち着くでしょうし、モチベーションも高いまま維持されるはず。結果、数々のミッションの成功にもつながる、と。良い仕事をするには、まず良い食事から……その精神は、宇宙も地上も同じなのでしょう。
そろそろまとめましょう。本書は、食という誰にでも興味が持てるトピックを軸にしているので、宇宙開発のことに特段の関心がない人であっても、かなり楽しめる内容になっていると考えます。前述したように、装幀やレイアウト、文章のどれもが一見シンプルで、いかにも学術書・専門書的な無味乾燥感を醸しているのですが、読んでみると、知的好奇心を刺激してくれる話題が充満しているので、誰でもサッと読み進めることができるはず。
子どもの頃によく感じていた「知りたい!」という初期衝動。素朴な興味を後ろ盾にした、雑学を蒐集する喜び。そんな純粋さを改めて呼び起こしてくれる、地味だけどそそられる良書です。
(文=漆原直行/編集者・記者)