大指揮者カルロス・クライバー「テレーゼ事件」の真相…現代のオーケストラと指揮者の力関係
リハーサル中の指揮者が急に頭をかきむしり、「違う違う、そんな音じゃない!」と叫び、指揮棒を折って帰ってしまう――。そんなふうに指揮者をイメージしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、僕がこれまで音大生の頃から多くの指揮者のリハーサルに通い、ウィーン音楽大学指揮科に留学中はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のリハーサルに潜り込み、その後、米ロサンゼルス・フィルハーモニック副指揮者として、すべてのリハーサルに立ち会っていた時代も含めて、そんな光景は1回も見たことがありません。というよりも、指揮者がオーケストラに対して怒っている状況すら見ません。
こう言うと、もしかしたら同僚指揮者から「篠﨑くんは見たことがないだけで、結構あるよ」と言われるかもしれませんが、それはオーケストラ楽員がいない楽屋での話でしょう。正直、今の時代にオーケストラの前で怒鳴ったりしたら、指揮者は次から呼んでもらえなくなり、ごはんを食べられなくなります。仮に、そのオーケストラの常任指揮者だったとしても、そんなことを繰り返していたら、次の契約時には「残念ながら……」となってしまうことは間違いありません。
楽員に対してチクチクと嫌味を言う指揮者の話は聞いたことがありますが、そんなことすら昔話です。今は指揮者が指揮棒を折ってオーケストラに怒鳴るような時代ではなく、双方が仲良くやっていかなくてはならないのは、一般社会と同じかもしれません。
しかし、あるロシアの巨匠などは、若い時にはあまりにも音楽に熱中し、休憩などお構いなしにリハーサルを続け、我慢できなくなった楽員が「マエストロ、トイレに行っていいでしょうか?」と尋ねたところ、「行ってもいいよ。でも明日から来なくていいから」と言ったと聞いたことがあります。もっとひどくなると、昔のアメリカでの話ですが、指揮者が怒りのあまり、奏者に対して一言「出て行け」と言えば、それでその楽員は無職になってしまう時代もあったそうです。
そんなプロ野球やサッカーチームのようなやり方で人員整理されては、楽員もたまったものではありません。そこで現在では、オーケストラの楽員は何か不当なことがあれば、駆け込むことができる労働組合、国によっては演奏家ユニオンという全国組織に守られています。
海外のオーケストラ楽員、「労働組合に訴えてやる」は常套句?
僕がフィンランドのオーケストラで指揮者をしていたある日、ビオラ奏者が僕のところに「歯が痛いので明日、歯医者に行きたいのですが、取れた予約がリハーサルに被ってしまいました。休んでもいいでしょうか?」と謝ってきたことがありました。日本のオーケストラでは、こんな事情は事務局に訴えるようになっており、指揮者に聞いてくることは皆無ですが、海外のオーケストラではちょくちょくあります。もし指揮者がOKを出せば、悠然と事務局に行って「指揮者がいいということなので、明日は休みます」と言いたいからなのではないかと勘ぐってしまいます。
この時、僕はそのビオラ奏者に「リハーサルはリハーサルだから、予約をなんとか調整できないか?」と言ったのです。そうすると、急にものすごく怖い顔をして「あなたを労働組合に訴えてやる」と脅してきました。これまでいつも笑顔で僕に接してきた古株の楽員だったので驚き、事務局長に相談しました。
それに対して事務局長が冷静な顔で「歯が痛いのに、あなたにダメだと言われたと思ってパニックを起こしたのよ。歯医者とか病院に行くのは組合で権利を守られているからね。でも、彼が労働組合に訴えることないと思うわ」と言うのを聞いて、ひと心地ついた思い出があります。もちろん、痛む歯を押さえながら僕に尋ねてきたビオラ奏者は翌日、歯医者で治療を受けました。「労働組合に訴えてやる」というセリフは、楽員がよく使う常套句だったのでしょう。
大指揮者カルロス・クライバーの「テレーゼ事件」
冒頭で、指揮棒を折って帰ってしまう指揮者など実際にはいないと述べましたが、演奏会をキャンセルすることで有名な大指揮者、カルロス・クライバーは、リハーサル中にちょっとしたことで指揮棒を折って帰ってしまったという逸話があります。しかも、世界最高のオーケストラのひとつ、ウィーン・フィルのリハーサル中の大事件で、「テレーゼ事件」といわれています。
ある日、クライバーはウィーン・フィルとベートーヴェン交響曲第4番のレコーディングのために何度もリハーサルを繰り返していました。ウィーン・フィルにとっては、ベートーヴェンなど目をつぶっても弾ける曲ですが、3日目になってもクライバーはしつこくリハーサルを続けていました。そんななか、それまではうまくいっていた2楽章の弦楽器のリズムが気に入らず、「音符なんていいから、テレーゼ、テレーゼと弾いてほしい」と指示を出したのです。
楽員たちはなんのことかわからず、混乱するばかり。そこでクライバーはイライラしながら、「あなたたちはマリー、マリーと弾いている」と言い出し、出番がない管楽器奏者がにやにや失笑しているのを見て、棒を真っ二つに折って帰ってしまったのです。指揮棒を折るというのは「もう指揮はしない」という意思表示で、結局、レコーディングは流れてしまったそうです。
ちなみに、「テレーゼ」とは実在の人物で、ハンガリーの伯爵令嬢テレーゼ・ブルンスヴィックのことです。ベートーヴェンが交響曲第4番を作曲していたころに、宛名も書かず結局は送らなかった熱烈なラブレターの相手で、後年、ベートーヴェン研究家の頭を悩ませ続けている、謎めいた“不滅の恋人”の候補のひとりとして名前が挙げられている人物です。
ベートーヴェンは伯爵夫妻から大事な娘テレーゼのピアノ教師として雇われている身分にもかかわらず、その令嬢と恋仲になってしまうなんて、とんでもない話ですが、今ではテレーゼではなく、妹のヨゼフィーネに手を出していたという説が有力です。実はベートーヴェンは結構、プレイボーイだったのです。
指揮者のクライバーとしては、恋に夢中になっている若者が1枚の紙に恋人の名前をたくさん書き続けるように、ベートーヴェンは「テレーゼ、テレーゼ」と音符で曲に書いたのだと言いたかったのでしょう。しかし、「マリー、マリーではない」などと言われても、楽員もなんのことやらわかりません。ちなみに、マリーという人物もベートーヴェンの“不滅の恋人”候補のひとりとされている、マリー・フォン・エルデーディです。最近では、マリーは単なるベートーヴェンの熱烈なファンだっただけで、どうやら恋人ではないというのが定説になっていますが、クライバーも知っていたのかもしれません。
(文=篠崎靖男/指揮者