共同ピーアール(PR)創業者で元社長の大橋榮氏が7月25日、多臓器不全のため死去した。80歳だった。通夜は28日午後6時から、葬儀・告別式は29日午前10時から東京都台東区上野公園の寛永寺輪王寺殿第1会場で行われた。喪主は次男・仁(ひとし)氏。
大橋氏と共同PRは、日本の企業広報の歴史そのものといってよい。大橋氏は半世紀近くPR業界の「天皇」として君臨してきた。
1937年6月18日、新潟市で生まれた。大学卒業後、広告代理店に就職したが、「日本にも米国並みのPR時代がやって来る」と睨んで64年に、3人で共同PRを創業。
初仕事は神戸製鋼所だった。神戸製鋼は高速道路のガードレールに使うワイヤーケーブルを扱っていた。これをPRするため、ガードレールの写真を撮ろうと東名高速道路を走った。そのため、「工事関係者以外で最初に東名を走った」と草創期の自慢話が伝えられている。大橋氏は67年、共同PRの社長に就いた。
PR会社は、広告代理店とは違い、また編集プロダクションやイベントの企画会社とも違う。
今は亡き六角弘氏の『ドキュメント 企業犯罪』(KKベストブック)は、「企業とマスコミの間で活躍するPR会社の実態」について、次のように一節を割いている。
「単純にいえば、企業から定期的に会費をもらい、企業のために働くのがPR会社である。(中略)イメージダウンになる記事のマスコミ媒体への差し止めのお願い役、マスコミ人士のデータ収集など、企業の広報・総務や秘書室が表だってできないことを代行しているのがPR業の業務内容。
企業側は記者の買収、記事の差し止めなどを安易に要求するが、もちろん、めったなことで実現するはずはないので、PRマンは東奔西走。差し止めが不可能なら社名をイニシャルにするとか、見出し、広告から社名を消してもらうとかのお願い事で、マスコミの編集幹部に会って三拝九拝する」
大橋氏が付き合ったのは、経済部の記者だけではなく、社会部の記者も視野に入れていた。企業にスキャンダルが起きたら、社会部記者の出番になるからだ。企業トップのスキャンダルを握った週刊誌に広告出稿とバーター(交換条件)で圧力をかけたり、企業に代わって総会屋対策を請け負うなど、荒っぽい手法を駆使した。そのため、経済・産業界ではなかなか市民権を得られなかったが、2005年にはPR業界として初めて株式をジャスダック市場に上場した。
6000万円の資金流用が発覚して失脚
08年のリーマン・ショックで、各企業は広報関連予算を大幅に削減した。これで共同PRは資金繰りが悪化した。この過程で大橋氏をめぐり、不透明な資金の流れが発覚した。11年12月、監査役会に対して行われた内部告発をきっかけに、社外監査役3人と弁護士を中心とする内部調査委員会が調査を行い、6000万円を超える不正な資金流用が明らかになった。
それを受けて、大橋氏は11年12月26日付で共同PRの社長を辞任した。持ち株比率20.54%の筆頭株主だった大橋氏は個人的借金を返済するため14年2月、保有していた株式を2億3000万円で新東通信に売却。新東通信が筆頭株主となり、経営権が移った。新東通信の議決権ベースの持株比率は31.0%(自己株式を控除、16年12月31日時点)になっている。
共同PRの16年12月期の連結売り上げは前期比11%増の40億円、営業利益は38%増の1.8億円、純利益は51%増の1.6億円だった。
イトマン事件にも登場
『住友銀行暗黒史』(有森隆/さくら舎)に、共同PRが登場する。
朝日新聞東京本社で「週刊朝日」副編集長や編集委員を歴任した栗田純彦氏は、イトマン社長・河村良彦氏の住友銀行取締役・人形町支店長時代の「スキャンダルを揉み消した」(イトマン関係者)ことから、河村氏のアドバイザーとなり、イトマンの顧問のような役割を担うようになっていた。
この栗田氏が、苦況に立たされていたイトマンのPRの話を共同PRに持っていったというのだ。実際にイトマンのPRを引き受けたのはP&IというPR会社だったが、P&Iの2代目社長の曽根進氏がこう語っている。
「当社に紹介がある前に(栗田氏が)共同PRに話を持っていったと、当時の共同PRの社長だった大橋榮さんから聞いていた」(『住友銀行暗黒史』より)
P&Iは、実際に1988年5月から92年4月までイトマンのPRを請け負っていた。
「曽根氏は大橋氏から、“止め屋”のノウハウを実地に教えてもらっていた。“止め屋”とは企業にとって決定的な打撃になるマイナス情報をいかに止めるか(=世の中に出さない)という仕事をするプロのこと。共同PRは、この世界では知られた存在だった」(同)
(文=編集部)