指揮者は一般会社員のように採用試験などはないので、大学卒業後、ひとまず「指揮者」という看板を上げたところで、すぐに指揮をできるわけではなく、最初のうちは多忙な先輩指揮者の代わりにアマチュア・オーケストラの練習をしたり、オペラの歌劇場で本番指揮者の補助をするアシスタント指揮者として舞台裏を走り回ることになります。
僕が日本の音楽大学を卒業してから、オーストリア・ウィーンに留学するまでの間のことです。3~4名の集団のアシスタント指揮者にもボスのような先輩がいて、何もわからない音楽大学出たての僕も、そのボスに叱られたりしながら経験を積んでいました。あるとても寒い日、家にあった一番暖かいウールの真っ白なセーターを着こんで歌劇場に向かいました。別に派手なプリント柄があるわけでもなく、それに問題があるとはつゆほども知らなかった僕は、歌劇場に入ったとたんに、「よりにもよって、なんで白い服なんだよ」とボスに叱られました。
オペラは日本語で「歌劇」と言うように、主役は舞台上で歌いながら劇をする歌手たちです。舞台の前面に深く掘られたようなオーケストラピットで演奏するオーケストラや指揮者が燕尾服や黒い礼服を着ているのも、できるだけ目立たないためで、照明を浴びながら、役柄に合わせた衣装を着ている歌手に観客が集中できるようにしているのです。たとえば、2人の若い男女が薄暗い夜に愛を歌っているシーンで、オーケストラメンバーが派手な衣装を着ていたとしたら、そちらのほうが目立ってしまって舞台が台無しになります。
他方、観客から見えない舞台裏で仕事をしているアシスタント指揮者が、どんな色の服を着ても関係ないようにも思いますが、実は違う理由でダメなのです。舞台裏は、舞台上の照明に影響が出ないように、かなり薄暗くなっています。しかも、舞台転換をスムーズに行ったり、今から舞台に飛び出す歌手をサポートしたり、舞台スタッフはものすごく殺気だっています。
そんななかで、僕は白いセーターを着て歩き回ろうとしていたわけですから、「目障りに思われて、舞台スタッフから怒鳴られるぞ。今からでもいいから、黒いシャツを買ってこい」と、ボスに怒られたのです。そう思って周りを見渡すと、歌手以外はスタッフも含めてみんな真っ黒い服を着ていました。舞台スタッフは舞台転換の真っ暗闇の中、目立たないためにも黒い服を着る必要があるのでした。今になって振り返ると、そのボスには本当にいろいろとお世話になりました。
知られざるコンサートホールの舞台裏
ところで、最近のコンサートホールは歌劇場とは違い舞台裏がまるでホテルのロビーのように明るく、壁も落ち着いた色調の場所が多くなってきました。もし、目隠しをした状態で連れてこられ、ここで目隠しを外したら、扉ひとつ隔てたところにステージがあり、2000人の観客が待ち構えているなどとは想像もつかないでしょう。
ホールによってはバーのようなスペースがあったりして、さすがに真面目な日本のオーケストラでは使いませんが、ヨーロッパでは出番が終わった奏者は軽く一杯飲めたりするのです。それどころか、フィンランド・ヘルシンキのフィンランディア・ホールでは、舞台裏がそのまま食事もできるカフェテリアになっています。本番後には、ステージから引き揚げてきた奏者がそのままビールを買って、みんなで乾杯しているのです。初めてヘルシンキ・フィルを指揮した時には、この光景を見て驚きました。
そんな舞台裏ですが、指揮者は開演直前に何をしているかというと、実はまるで幼稚園児が引率の先生についていくような状態となっています。指揮者の楽屋は、ステージに一番近い場所にあることがほとんどです。結構な年配も多い指揮者が、あまり歩かなくていいように気を遣ってもらっているのかもしれませんが、それよりもスタッフが指揮者をコントロールしやすいことがあると思います。
開演前の指揮者は、スタッフに呼ばれるのを楽屋の中で待っています。そこにスタッフのノックが聞こえて、緊張のボルテージが上がるというのか、まな板の上の鯉になったというのか、「さあ、これからだ!」と気持ちを引き締めながら、舞台袖まで引率されます。
とはいえ、そのままステージに向かうわけではありません。やはりスタッフのなかにもステージマネージャーというボスがいて、彼に身柄を引き渡されます。このステージマネージャーは、ステージ、一階客席、二階客席、ロビーが映っているモニターをにらみつけています。たとえば、開演する直前にもかかわらずロビーで小走りのお客様がいれば、そのお客様がいつ頃座席に着くのかまで想像しながら、客席内の観客の動きもしっかりと確認し、照明スタッフに「客電を落としてください」と指示をします。ちなみに、客電とは客席の照明ですが、最近では落とさないホールも増えてきました。
舞台上の照明も明るくし、やっとコンサートマスターがステージに出ていくわけですが、それでも指揮者は動けません。オーケストラのチューニングのあと、ステージマネージャーは、観客席の雰囲気が落ち着いてきたのを見計らって、指揮者の顔色も見ながら、良いタイミングで重いステージドアを開けます。これは、「ステージに上がってもいいよ」との合図というより、「許可」になります。もし、それまでに無理やりステージに上がろうともがいても、しっかりと止められてしまいますから。
意外とこのタイミングは簡単ではないようです。これが良いステージマネージャーの場合、指揮者が出たくなった瞬間を感じ取って、スッとドアを開けてくれるのが不思議です。そして、ステージに上がる寸前の目と目が合った時に、「良いコンサートを期待しているよ」との意思を、無言で感じさせてくれる存在でもあります。
さて、無事に演奏が終わり、指揮者がお辞儀をして舞台裏に戻ってくると、まるで自動ドアのようにドアが開くわけですが、これは21世紀のテクノロジーではなく、実はものすごく原始的な方法です。それは、分厚いステージドアには、どこのホールでも小さな穴があけられており、舞台上で拍手が始まったらステージマネージャーはそこをのぞき込み、帰ってくる指揮者にドアを開けるタイミングを合わせるように計るのです。
これも、早く開けすぎては観客の意識がドアに行ってしまいますし、遅すぎてドアが開くのを困った顔をして待っている指揮者も様になりません。観客から見たら、なんということもないようなドアの開け閉めですが、ステージマネージャーも若い時には、先輩のボスから怒鳴られながらタイミングを覚えたのでしょう。
(文=篠崎靖男/指揮者)