2月13日、まもなく日が変わる23時8分頃、東北地方を中心に「最大震度6強の地震」が起きた。福島県、宮城県、山形県のほか、関東地方でもけが人が出た。その後、2011年3月11日に発生した「東日本大震災の余震」と発表され、当時をあらためて思い出した人も多いだろう。まもなく、その「3.11」から10年となる。
筆者は震災の翌年、被災地で復旧の兆しが見えた2012年1月から東北や北関東の各地を訪れて取材を続けている。その内容は当欄を含めて記事にしてきた。
10年がたち、被災地の企業経営者はどんな思いで日々の活動を続け、暮らしているのか。1月下旬、三陸海岸の宮城県気仙沼市を訪れた。当地の状況を踏まえて報告したい。
震災後は好機と逸機で、見通しが立ちにくい
「昨年の『Go Toトラベル』キャンペーン時期はお客さんも多かったけれど、今は少ないですね。首都圏などの緊急事態宣言による外出自粛の影響を受けています」
海産物の製造・販売を行う、株式会社大菊(だいきく)副社長の吉田晶子氏は、こう語り、「仲間内では『あの盛況が戻らないかな』と話します」と苦笑いする。
話を聞いたのは宮城県気仙沼市の「気仙沼 海の市」という商業施設内。ここに入居する「大菊 海の市店」だ。
「海の市」は、気仙沼湾に面した商業施設として震災後の2014年にリニューアルオープン。日本有数の漁港として知られる気仙沼の象徴「気仙沼市魚市場」の横に位置する。
東日本大震災後の10年を、吉田氏はこう振り返る。
「商売の視点でいえば、震災後は取り巻く環境の『好機』と『逸機』が次々に起こり、なかなか見通しが立たないですね。そのなかで何ができるかを考え、取り組んでいます」(吉田氏)
同社にとって好機と逸機とは、次のような出来事だという。
「好機」=高速道路の無料化。三陸道の開通。気仙沼大島大橋の開通。気仙沼横断橋(2021年3月6日開通予定)。「Go To トラベル」キャンペーン。海の市でのイベントを企画・出演。復興事業に来られた方々の移住や支援。NHK連続テレビ小説『おかえりモネ』(2021年5月17日~放送予定)。
「逸機」=新型コロナウイルスによる外出自粛。コロナ禍の休業や営業時間短縮。相次ぐ地震。豪雨による水害。観光誘致が不十分。人口減少が加速化。復興事業の終了。
あっという間に経営環境が変わり、以前と同じやり方では商売が続けられない時代だ。
「ふりかけ」「うに」「わかめ」が人気商品
「海藻・乾物・珍味問屋」を掲げる大菊の看板商品が「炭火手焼ふりかけ」だ。最高級とはいえ、価格は1袋(28グラム)300円ほど。「気仙沼を思い出す懐かしい味」と称した人もいる。
「気仙沼で水揚げされた厳選した鯖(さば)と鰹(かつお)を使い、遠赤外線でクヌギやナラの炭火で丹念にこんがり焼き上げており、1工程に28時間かけた商品です。パリッとした食感のふりかけは、温かいごはんの蒸気で程よいしっとり感をまとい、口の中に運ぶと香ばしさと甘じょっぱさが広がります。
もともとは、臼井商店さんが製造していた、ご当地の炭火手焼ふりかけです。店主の臼井さんご夫妻が高齢となり引退する時、当社が継承しました。パッケージに臼井商店さんの屋号を入れ、その製法も思いも受け継ぎ、誕生から80年になる商品です」(同)
ほかの人気商品には「潮うに」がある。「リアス式海岸の豊富な海藻で育った岩手A級ランクのムラサキうにを、ミョウバンを使用せずに上品な甘口に仕上げている贅沢な逸品です」(同)
「塩蔵わかめ」も評判だ。こちらも地元産で肉厚で弾力ある三陸わかめ。社長の目利きで、品質の良い本物のわかめを厳選して販売するという。
被災直後は「食をつなぐような」日々だった
2011年3月11日に発生した東日本大震災と発生後に押し寄せた津波は、東北地方を中心に1万5000人以上の命を奪い、現在も2500人以上の方が行方不明のままだ。漁業の街・気仙沼は、それまで地域経済の8割を占めていた「水産業」が震災と津波で95%の製造・貯蔵設備が被災するという壊滅的な打撃を受けた。大菊の被害はどうだったのか。
「気仙沼港に面した施設内の『大菊 海の市店』(当時)は全壊流失。賃貸していた大船渡の印刷会社も全壊。主力商品を預けていた漁連冷凍庫も全壊流失しました」(同)
震災発生は金曜日の午後(14時46分)で、それまでは同氏も平穏な一日だった。
「年度末の3月で忙しい日々でしたが、通常の金曜日と変わらない一日。家庭では、長男が大学の後期受験の前日、高校受験を終えた次男は中学の卒業式の前日でした」(同)
そんな生活が「3.11」を境に一変する。
「海岸から離れていて被害が軽微だった大菊本店と、自社倉庫内のわずかな商品だけで、震災翌日から店頭販売を始めました」(同)
筆者はこれまで気仙沼市に限らず、宮城県石巻市や塩釜市、岩手県大船渡市などで、震災直後の状況を聞いてきた。多くの会社が「まずは後片付けから」「貯蔵庫の温度管理から業務を始めた」など、「できることから再開した」と話していた。
「当時は商売というより、被災をされた方々の食をつなぐために夢中で店を開けている状態でした。震災の道路寸断で流通は止まりましたが、そのなかで炭火手焼ふりかけ製造ができたこと、東北以外の流通経路があったことで事業再開のメドが立ったのです」(同)
10年がたち、気仙沼の復興も経済も回復してきたが、震災以前には戻り切らない。
それでも続けられたのは「人脈支援」もあった
厳しい状況におかれた大菊だが、現在まで10年、事業を継続できた理由は何か。前述した「好機」に加えて、「人脈」の視点でも紹介したい。
震災後、被災地の苦境を憂えた多くの人が、さまざまなかたちで当地の支援に乗り出した。
たとえば、石巻市の缶詰メーカー「木の屋石巻水産」は被災後の缶詰を、取引先である東京・世田谷区経堂のイベント酒場「さばのゆ」に陸路で送付。同社やボランティアの人が洗って「奇跡の缶詰」として販売。こうした支援の輪がメディアで報じられて活動が広がり、工場在庫として残った約22万缶の缶詰が、多くの人の協力や支援で完売した。
気仙沼市では、「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)を運営するコピーライターの糸井重里氏と、「ほぼ日」スタッフの尽力が特筆される。同社は、2011年11月11日に気仙沼支社を開設し、インターネットサイト「気仙沼のほぼ日」を発信し続けた。2019年の同じ日で支社はなくなったが、「大菊のふりかけ」もネットで紹介するなど支援してくれた。
「震災の復興支援に来られたエンターテイナーの方々と、地元有志の方々で『海の市スマイルフェスティバル』を年に4回、5年にわたり開催しました。ステージは音楽やダンス、マジックなどを披露し、私も企画・出演しました。ここで知り合った多くの方々が『気仙沼は楽しい』と。私は、笑顔が絶えない場所をつくりたかったのだと思います」(同)
さまざまな会社が「代替わり」の時期を迎える
10年という歳月は、会社によっては「代替わり」の時期を迎える。当時取材した人たちもそうだった。くわしく紹介する紙幅はないので、状況だけを紹介したい。
・社長が会長となり、常務だった息子が社長に就任(岩手県の菓子メーカー)
・学生だった息子が跡を継ぐことを決意。経験を積み、役員に(宮城県の酒造メーカー)
・社長が会長となり、専務だった息子が社長に就任(茨城県のカフェチェーン)
実は大菊の吉田氏は三代目で、現社長の長女にあたる(現姓は結婚後)。ここまで会社の業容を拡大したのは二代目の菊池興(こう)社長だ。
「もともと祖父母が創業した店です。祖父は三井物産出身で海外出張もあり、父の憧れの存在でした。戦時中に疎開した気仙沼で海産物を扱う『菊池雄次商店』を始めました。祖父が他界したのは父が大学2年の時。在学しながら、祖母を手伝うことになりました。父は戦後の食糧難もあり、働いて家族を養わなければならない使命感だったと聞きます。昭和49年、大きく繁栄をと期待を込めて現社名にしました」(同)
「思い」は一致するが、「方針」では対立
ご自身の結婚や長女(晶子氏)誕生で、社名への思いもあったのだろう。順調な時期、厳しい時期を経た父、そして娘は同じ方向性を向きながらも、事業方針では意見が異なる。
「先の動きが取れない状況で、日々の商売を続ける一方、会社の将来像もお互い描いています。経営者としての父は尊敬していますが、時に対立することも。慎重派の社長と積極派の副社長の違いといえましょうか。父の手堅さを理解しつつ、私は会社の進化のために、オンライン販売を強化するなど事業展開を広げたいのです」(同)
「お客様に喜んでいただける商売」「会社をこの先も残したい」の思いでは一致する。
コロナ禍にも共通するが、「すれすれで助かる」「なんとか生き残る」が大切な時代だ。そのためには、考え続けた末に「次の一手」を打ち続けるしかないだろう。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)