渡部建、謝罪会見を避ける本当の理由…復帰への計算、文春での謝罪は“素振り”の可能性
「アンジャッシュ」の渡部建さんが「週刊文春」(7月2日号/文藝春秋)で独占謝罪した。だが、いまだに謝罪会見を開いていないことに対して疑問の声が上がっている。
渡部さんが会見しないのは、以前この連載で指摘したように自己愛が強いからだろう。強い自己愛の持ち主は、自己愛の傷つきに人一倍敏感で、自己愛が傷つく事態を何よりも恐れ、極力避けようとするからである。
多目的トイレで肉体関係を持ったことを含めて複数の女性との不倫が報じられてからの世間の反応を見る限り、渡部さんが謝罪会見を開けば、容赦ない質問が飛んでくることは容易に想像がつく。当然返答に窮するだろうし、頑張って答えても、言い訳と自己正当化に終始していると批判されるかもしれない。あるいは、会見で話したことに対して、不倫相手の女性が「事実と違う」と異議を申し立てる可能性も十分考えられる。
そうなれば、渡部さんの自己愛は傷つくはずだ。そういう事態を何よりも恐れるからこそ、謝罪会見を開かないのだと思う。自己愛が強い人は、必ずしも鋼(はがね)のように強靱な神経を持っているわけではない。むしろ、自分自身を愛する気持ちが人一倍強いがゆえに、バッシングには脆弱なのだ。
そういう自分の打たれ弱さに薄々気づいているからこそ、自己愛が少しでも傷つく事態を避けて、自分を守ろうとする。17世紀のフランスの名門貴族、ラ・ロシュフコーは「自己愛は、この世で最もずるい奴より、もっとずるい」と述べているが、自分を守るためにずるくなることは、誰にでも多かれ少なかれあるのではないか。
渡部さんの計算
今回「文春」で謝罪したのも、自分を守るための計算があってのことだろう。まず、自身の不倫を暴いた媒体で謝罪すれば、禊(みそぎ)がすむという計算が働いたはずだ。また、落語家の立川志らく師匠が25日にテレビ番組『グッとラック!』(TBS系)で言ったように、「第3弾、第4弾出ないように」という思惑もあったのかもしれない。
私は意地悪なので、「妻も怒っているし、世間からもボコボコに叩かれているし、テレビにも出られなくなった。ヤバいことになったので、一応謝罪の素振りを見せておこう。そのうちほとぼりが冷めれば、世間も忘れるだろう」という計算もあるのではないかと疑いたくなる。
だが、そんなに甘くないと私は思う。もし、時間が経てば世間が許してくれて、そのうちテレビにも復帰できると思っているのなら、妻の佐々木希さんから言われたように「あなたはどこかで舐めて生きている」ことになる。
私としては、渡部さんに過去の女性遍歴を赤裸々に吐露した自伝を書いて出版することを勧めたい。幻冬舎の“天才編集者”、箕輪厚介氏が編集を担当すれば、きっと売れるはずだ。もしかしたら、井原西鶴の『好色一代男』と並ぶ傑作として後世に名を残すかもしれない。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
François de La Rochefoucauld “Maximes et Réflexions diverses” Garnier Flammarion 1977