指揮者とコンサートマスター
基本的に指揮者は、オーケストラの演奏を揃え、音楽的なキャラクターをつけていく仕事です。音楽のみに集中して指揮をすることができれば理想的なのですが、実際の現場では、指揮者には実用的な動作も必要になります。たとえば、楽器の演奏の入りを合図することも仕事の一つですが、「3、2、1、ハイ!」と演奏会中に声をかけるわけにはいきません。そこで、指揮棒を持っていない左手で合図をするのです。
ほかに、固有のジェスチャーもあります。たとえば、広げた左手の手のひらの向きだけで、大きく意味が変わってきます。ウィーン国立音楽大学のレッスン中に、レオポルト・ハーガー指揮科教授から教わったのですが、手のひらを相手に向けると「音が大きすぎるので小さく」、手のひらを下に向けると「少し演奏が早い」という意味なのです。あと、人を呼ぶように“おいでおいで”をする手のジェスチャーは「もっと大きな音で」という意味ですが、これはわかりやすいですね。このような指揮者のジェスチャーを、オーケストラに入りたての新入楽員は知らないため、現場で先輩楽員から一つひとつ教わっていきます。
さて、僕がハーガー教授にも教わらなかったジェスチャーをひとつ、使ったことがあります。これは、指揮者として使わないほうがいいジェスチャーといえそうですが、その時は仕方なかったのです。
海外での出来事ですが、あるオーケストラから客演指揮者として呼ばれました。リハーサル直前になって事務局員から、「今現在、このオーケストラは新しいコンサートマスターを探しています。今日のコンサートマスターは優秀な若いアメリカ人ヴァイオリニストで、招待した候補のひとりなんです」と言われました。つまりは、いつもの慣れたコンサートマスターでないため、ご迷惑をおかけしたらすみませんというわけです。
ちなみに、コンサートマスターとは、ヴァイオリンの一番パートのリーダーであり、オーケストラ全体を演奏面でリードする特別な存在です。
コンサートマスター選びは、通常のオーケストラ楽員の選考とは違う方法を取る国が多いのです。たとえばドイツのオーケストラでは、優秀なコンサートマスター候補を招待して、特別なオーディションによって選ぶそうです。これもオーディションの形態の一つといえなくもないですが、一般奏者のようにオープンに誰でも参加できるものとは違います。ただし、それぞれの国の労働法にも関係しており、僕が8年間芸術監督をしていたフィンランドのオーケストラのように、完全にオープンなオーディションの場合もありますし、アメリカのように折衷策を取る場合もあります。まずは公開オーディションを行い、見つからない場合、あらかじめ目を付けていた優秀な候補者を招待オーディションに呼ぶという流れです。