鈴木亮平が主演を務めるNHK大河ドラマ『西郷どん』の第40回「波乱の新政府」が28日に放送され、平均視聴率は前回から0.6ポイント減の11.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だった。
明治政府は、日本を中央集権型の国家へと作り替えるため、廃藩置県を断行しようとしていた。だが、諸藩からの反発が予想されるため慎重論も根強く、政府内の対立は激化していた。この状況を打破するために薩摩から東京に呼び戻された西郷隆盛(鈴木)は、天皇直属の軍隊「御親兵」の創設を提案。「官軍」の威光と武力を背景に廃藩置県を断行せよ、と憎まれ役を買って出る。かくして、明治政府は明治4年7月に廃藩置県を断行した――という展開だった。
「だれがどんな主張をしたか」は多少改変されているものの、構成そのものは史実の流れに沿っており、非常にまじめな大河ドラマらしい回だったといえる。いつもは湧き起こる視聴者からの批判も今回ばかりはぐっと減少し、目立った意見は「(岩倉具視役の)笑福亭鶴瓶の演技がひどい」くらいだった。これは本当にその通りなので、一言だけ触れておきたい。
失脚し、西郷や大久保一蔵(瑛太)らと倒幕を画策していた頃は、鶴瓶のうさんくさい演技も、あからさまな関西弁(京都弁ではない)も、まあ許せた。だが、政府中枢になってからも下品きわまりない言動、というより鶴瓶本人丸出しの演技を続けるのはいただけない。あれを許した演出や監督の神経を疑う。ボロクソに言ってしまったが、ダメポイントがそこだけなので余計に目立ったということで、お許しいただきたい。
では、今回多くの視聴者が「おもしろかった」「大河ドラマらしかった」と感じた理由はなんだろうか。おそらく、「人間関係の変化」と、それに伴う「心情の変化」がしっかりと描かれていたからではないだろうか。まず描かれたのは、薩摩の絶対的権力者として振る舞ってきた前藩主・島津久光(青木崇高)と大久保の立場の逆転だった。大久保は久光に対して、自分はすでに天皇に仕える身であり、島津家の家臣ではない、むしろ天皇に仕える自分ののほうが立場が上だ、と言わんばかりに振る舞う。大久保らの言葉を信じて倒幕・新政府樹立を支持してきた久光にしてみれば、ひどい裏切りである。戊辰戦争に勝ちさえすれば、あとは薩摩も久光も用済みだ、と言われたようなものだ。さすがにこれは久光に同情せざるを得ないし、「明治政府って結構ロクでもなかったんだな」との思いが湧いてくる。視聴者の心情を動かす、いい場面だったと思う。
西郷と大久保の人間関係にも焦点が当たった。明治政治に戻った西郷は、結論の出ない論議を続ける一方で贅沢三昧を繰り広げる政府首脳たちとは一線を画し、皆が豪華な仕出し弁当を食べている横で持参した握り飯にかぶりつく。かと思えば、「政府には金がない」と堂々巡りの議論を続ける彼らに向かって「我らの給金を減らして質素倹約に努めればよい」と言い出し、場を白けさせる。大久保は西郷をいさめようとするが、逆に政府の姿勢を批判されそうになったため、「ぜいたくをするのは異国になめられないようにするためだ」との論法で自分たちの所業を正当化する。その様子を見た西郷は、「こんなことを本気で言う人間になってしまったのか……」とでも言いたげな、哀しい目で彼を見た。
西郷と大久保の決別を予感させる、いいシーンだ。ずっと弱者に寄り添ってきた西郷にとって、「自分たちが倹約すればよい」というのは当然の論法だし、一刻も早く欧米に追い付かなければ日本が危ういとの危機感を常に抱いている大久保らが「欧米の真似をしなければ対等に見てもらえない」と考えるのも無理はない。どちらもそれぞれの立場で正しい。この「正しさのぶつかり合い」が、後に悲劇を生んでしまうのだと考えると、すでに悲しくなる。
とはいえ、西郷と大久保はラストで和解。西郷は「おはんが抱えきれんもんは、おいが抱えっで」と大久保に語り掛け、握り飯を手渡した。「うんまか」「うんまかなあ」と言い合いながら並んで握り飯を食べる2人は、まるで貧しかった昔を懐かしんでいるかのようだ。だが、基本的には西郷の路線と大久保の路線は異なる。今回は和解したようだが、再び路線の違いによる対立が明確化する時が必ず来る。もし、最終章の「明治編」が、西郷と大久保の関係性をテーマに最後まで描かれるとしたら、かなり見ごたえのあるドラマになるのではないだろうか。
(文=吉川織部/ドラマウォッチャー)