織田信長が、日本の長い歴史のなかでもっとも光り輝く「スーパースター」であることは間違いない。信長については毀誉褒貶が激しいが、現代でも数々の物語やドラマに登場し、専門の学者からも歴史好きの人からも常に注目されているこの武将は、いったいどのような人物であったのか。
後世になって創作された過剰な「伝説」も含まれているようだが、桶狭間の戦いの劇的な勝利に始まる難敵たちとの合戦、比叡山の焼き討ちなど旧勢力に対する過酷な対処、楽市楽座などの先進的な経済政策などを見るにつけ、信長が「天才」であったことは明らかであろう。
さらに安土城を建立し天下統一まであと一歩というところまで迫ったにもかかわらず、日本史における最大の謎のひとつ「本能寺の変」による悲劇的な最期を迎えたことで、“信長伝説”の陰影はさらに濃厚なものになったのである。
信長は、中世的な伝統を破壊した改革者として語られることが多い。何よりも、群雄割拠の戦国時代を乗り越えて、「天下統一」「天下布武」を目指したことは、ほかにはない唯一無二の視点であったとされる。
信長は「反社会性パーソナリティ障害」で「サイコパス」
信長以外の戦国大名は、自らの領土の拡大を目指しはしたが、天下統一を考えることはなかった。名将といわれる武田信玄も上杉謙信もそういった存在であったし、秀吉や家康さえも、信長というお手本がいたからこそ「天下取り」を目指すことができたのである。
信長の登場がなければ、日本の戦国時代はその後もえんえんと続いていたかもしれないし、日本が統一されないままであれば、日本の一部がヨーロッパの植民地になっていた可能性さえ考えられる。(藤田達生『信長革命』角川選書)
一方、信長のパーソナリティについては、批判の対象となることがまれではない。極悪非道とまではいかないが、サディスティックで容赦なく、慈悲のかけらもなく敵を殲滅するというイメージで語られることが多い。さらに、信長は「反社会性パーソナリティ障害」で、他人に対して冷酷なサイコパスだと指摘している人までいる。
こういったイメージは、宗教勢力との戦いにおいて、信長のまさに敵を「根絶やし」にしようとしたことに原因があるようだ。早川智氏は、次のように彼のサディスティックな傾向を指摘している。
「信長は謀反を繰り返す弟・勘十郎信行を清洲城で自らの手で謀殺、有名な比叡山延暦寺の焼き討ちや、伊勢長島の一向宗門徒の虐殺、長年家老をつとめた佐久間信盛や林道勝ら無能な家臣の追放など、いかに戦国時代とはいえ、無情な振る舞いが多い。徳富蘇峰は『信長の性格は心理学上の謎と云わねばならぬ。(中略)不正を憎み之を懲罰するを以って、宛も一種の愉快としたらしく思われた』としており、サディズムがあったのではないかと王丸勇教授は指摘している」(早川智『戦国武将を診る』朝日新聞出版)
越前で一向宗門徒1万2000人をなで斬りに
実際、対立する宗教勢力に対して、信長の取った政策は容赦のない苛烈なものだった。吉本健二氏は、信長が残忍で冷酷非情と見なされた原因のひとつとして、天正3(1575)年に信長が、越前の本願寺門徒との戦いの後に、京都所司代の村井貞勝に宛てた手紙の内容を挙げている。(吉本健二『手紙から読み解く戦国武将 意外な真実』学研プラス)
天下を目指す信長の前に立ちはだかったのは、歴戦の戦国武将だけではなかった。信長は、宗教勢力、特に一向宗に帰依する本願寺の門徒と激しい戦いを繰り広げた。越前においては門徒衆が大名を倒して、独自の自治組織を築き、信長の指示にまったく従おうとしなかった。
以下の手紙の内容は、門徒衆との戦いにおける自軍の勝利をことさらに誇示するものである。この合戦には、秀吉も光秀も参加していた。
……まずは、浜手の方にあった篠尾、杉津の両城を攻め崩した。その際、たくさんの首を斬り、憂さを晴らしたぞ。
……案の定、一揆衆が五間、三間ずつ間隔を開けて逃げ帰ってきたのを、府中の町で千五百ほど首を斬り、そのほかにも府中付近で都合二千余の首を斬った。
……府中の町は死骸ばかりとなって、一帯で空く所がない。そのありさまを見せたく思うぞ。
今日は、山や谷を尋ね探し、さらに一揆衆を打ち果たそうと思う。(中略)
……これらの趣旨を、荒木信濃守村重、三好山城守康長などにも報せて、喜ばせてやってほしい。
(吉本健二『手紙から読み解く戦国武将 意外な真実』学研プラス)
一読すると、信長の残虐性がよく表れている文章のように思える。事実、『信長公記』によれば、この戦闘で殺害された一揆衆は、1万2000人以上に及ぶという。
ただの独断専行ではない、信長の老獪さ
もちろん、信長が長年にわたって一向衆との戦いで苦汁をなめさせられ、彼らに対する相当の敵愾心を持っていたことは明らかで、それは文面からも読み取れる(実際、長島の戦いでは、信長の実弟が戦死した)。ただこの手紙は、むしろ過剰なくらい、「なで斬り」の戦果を強調していはしまいか。
実はじっくり読んでみれば、この文章の「肝」は、戦果の自慢にあるのではなく、荒木村重、三好康長の名前が記されている部分にあるのかもしれない。両名とも信長の配下にあった武将であるが、謀反の噂が絶えなかった。
事実その後の村重は、信長から離反した。一向宗に対する過剰な戦果の強調は作為的なもので、おそらく村重たちに対する「牽制」であり、それがこの手紙の主要な目的だったように思える。
この手紙は部下たちに対する、間接的な「恫喝」なのだ。このように、人の心の動きを見透かすようにして、事前にそれに対処をしようとする点は、信長の言動に特徴的である。
しかし一方では、このような「連絡」を受けた側としては、信長にすべてお見通しにされているようで、震えあがってしまったに違いない。信長政権で謀反がたびたび見られたのは、村重も光秀のように重用されていても気が抜けず、信長のすべてを見透かすような性質に耐えられなかったからかもしれない。
また、徳川家康による高天神城の攻略にあたっても、信長は細かい配慮を含んだ手紙を送っている。当時の高天神城は、武田方の傘下にあったが、間もなく落城しそうな状勢であった。
高天神城から降伏の申し出があった時、信長はこれを無視するように、家康に指示している。これにより信長は、「武田勝頼は高天神城に援軍を送らずに、見殺しにした」という状況を作り出そうとしたのだった。
しかしこの点を「命令」としては出さないで、「今後に気遣うことになるか、只今苦労するか、二つの見積もりはどちらが良いか分別しがたいので、この通りを家康殿に語って、徳川家中の家老どもにも申し聞かせて談合すればよかろう」と、最終決断は現場の大将である家康に一任するという心配りを見せているところが信長の老獪さである。ここには、ただ独断専行というだけではない信長が見てとれる。
確かに信長は、残虐で冷酷無比な行動をしばしばとっているように見える。けれども当時の基準に沿ってみれば、信長ひとりが際立って残虐だったと言えるかどうかは疑問である。例えば秀吉である。「庶民派」で「太閤様」と愛されるキャラクターであった秀吉においても、自らに謀反を起こそうとしたという理由で、甥の秀次の一族郎党数百人を処刑し、さらし首にしているのだ。
いずれにしても、「人の心がわからない」とか、「残酷な行為を楽しみに行った」ということは、信長にはあまり当てはまりそうもない。むしろ、信長は人の「気持ち」を推し量る達人だったように思えてくる。
秀吉の妻・おねに送った手紙に見えるきめ細やかな心配り
信長のきめ細かい心配りは、部下の家族にまで及んでいる。二木謙一氏はその著作のなかで、信長が秀吉の妻であるおねに出した手紙を紹介しているが、その内容は女性の気持ちにしっかりと配慮したものとなっていて、心憎い(二木謙一『戦国武将の手紙』角川ソフィア文庫)。印象的な内容であるので、少し長くなるがその一部を紹介してみよう。
「このたびは、はじめて安土城に出仕してくれてうれしく思う。ことに見事な土産物をいろいろ持参され、かたじけない。
(中略)
とりわけ、お前の容貌が、以前会った時よりも、十倍も二十倍も美しく立派になっている。それなのに、秀吉が不満を並べ立てているとはまことにけしからん。どこを探したとてお前さんほどの女は、二度とふたたび、あの禿げ鼠の秀吉にはみつかりっこない。だからお前さんも、これからは奥方らしくもっと心を大きくもち焼餅など起こしてはいけない。
ただし夫を立てるのが女の役だから、慎みを忘れずに夫の世話をしてやるように。なおこの手紙を羽柴秀吉にも見せてもらいたい」
一読してわかるように、おねへの心配りに加えてユーモアにあふれた、それでいて要点をはずさない文章になっている。現代でも十分に通用する手紙である。単なる儀礼的な礼に留まらず、しっかりとおねの美貌をほめたかと思うと、秀吉には過ぎた女房であると持ち上げて、同時に亭主を責めるのもほどほどにと諭している。
おねに対する信長の目線には温かな感情を感じられ、「サディスティック」とか「反社会性」といったこととは、無縁である。この手紙を微笑みながら読むおねと、恐縮してのぞきこむ秀吉の姿が浮かんでくるようだ。こうしてみると、実は信長は、なかなかの「人たらし」であったように思えてくる。
信長はADHDだった、とはいえない……?
信長についてはとにかく、真偽いずれともわからない多くの伝説が存在している。幼少時より粗暴で乳母の乳首を噛み切ったとか、少年時代には型にはまったことが嫌いで奇抜な身なりで町を練り歩いたともいわれている。
信長は鷹狩りのほか、武術の稽古に熱心であり、よく馬を乗り回していた。彼の行動は素早い。大将であるにもかかわらず合戦では一番乗りをすることも多かったが、逆に作戦に失敗したと悟ったときには、後先考えずに、ひとりで馬を走らせて合戦場から遁走するようなことも見られたという。
信長は何かにつけて派手で豪華絢爛なものを好み、人を驚かせることも好きだった。安土城は空前絶後の巨大な城砦で、本能寺の変がなければ、おそらくここがその後日本の都になっていたことだろう。また天皇、貴族が閲覧した馬揃えも、その豪華さにより語り継がれるものとなっている。
派手好きで、行動が素早く、危険な状況を好み、幾分衝動的で短絡的な傾向があるとなれば、思いつくのはADHD(注意欠如多動性障害)の特性である。ただし、信長に明確な「不注意」の症状は見られないように思う。
感情面での残酷さを強調されることが多い信長であるが、ここまで述べてきたように、むしろ彼の人間観察や心理洞察には、愛情深い細やかなものさえ見ととれる。人の感情をもてあそんだり、人が苦しむ様子を見て快感を感じたりというようなサイコパス的な心性とは異なっているように思われるのである。
「第六天魔王」ではなく、むしろ「普通」の人?
また信長は、自分の子女に冷たかったともしばしば指摘される。しかし実際確認してみると、実の娘については全員、配下や譜代の武将、あるいは貴族の子弟との縁組がなされており、長女の徳姫以外は幸福な人生を送っていたことがわかる。ここにおいても、信長が身内に冷たかったということは決していえないだろう。
長女の徳姫については家康の長男・信康に嫁入りをしたが、信康は謀反の疑いをかけられて切腹し亡くなってしまう。徳姫と信康の婚姻は戦国時代に特有の政略結婚のようにも見えるが、徳川家は織田家の盟友であり、家康は常に律儀に信長に従っていた存在であった。
つまり信長は、徳姫をもっとも信頼していた大名に輿入れさせたわけであり、一般的な政略結婚とは必ずしもいえないものであろう。
「第六天魔王」と呼ばれ、ルイス・フロイスからは「すべての王公を軽蔑している」と評された信長であったが、女性への心遣いや身内への配慮の仕方を見ると、ナチュラルな情愛の念を持った「普通」の人であるように、私には思えてくるのである。
(文=岩波 明)