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「偉人たちの診察室」第2回・石田三成

精神科医が分析する石田三成=アスペルガー説…空気が読めず黒田長政らと仲違いは本当か

文=岩波 明(精神科医)
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東京大学史料編纂所所蔵の絹本著色石田三成像模本(画像はWikipediaより)

 歴史好きな人にとって、おそらく戦国時代ほどおもしろい時代はない。まず何よりも、登場する人物のキャラクターが濃厚である。

 そこには、乱世でなければ、決して表に出てこなかったと思われる人物が数多く存在しているし、それどころか、平時だったら極悪人として、あるいは犯罪者として処罰されていてもおかしくない「英傑」も珍しくない。そういった人物たちが、一国のリーダーとして大きな顔をして強い権力を持っていたことも、不思議であり、興味深い。

 たとえば、大和の国の戦国大名として知られる松永久秀である。足利将軍の謀殺や東大寺の大仏の焼き討ちなどで悪名高い久秀は、いったんは織田信長の臣下となったが、その後も信長に対して、反逆と和解を繰り返した。最後は、自らの城に火を放って命を絶つという壮絶な最後を遂げている。

 謎の多い時代である。400年以上昔のできごとで、不完全な記録しかないのは、仕方がない。もちろん、パソコンもインターネットもなかったのだから、正確な情報を記録することだけでも大変だったことは明らかだ。

 それでも、歴史上明らかな事実とされている出来事についても、大きな疑問がいくつも存在している。そのひとつが、石田三成関ヶ原の戦いに関する謎である。

加藤清正、黒田長政ら豊臣恩顧の大名との“仲違い”

 関ヶ原の戦いにおいて事実上、西軍の大将であった石田三成は、1560年に近江の国で生まれた。石田家は土地の土豪で、はっきりした記録はないが、三成は10代半ばから秀吉に小姓として仕えていたようだ。その後の三成は、秀吉の政権において、内政や財政運営に優れた能力を発揮した。

 秀吉の死後、三成は徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いに至る。この経過のなかで、三成と、かつての仲間であった加藤清正、黒田長政など豊臣家恩顧の大名との険悪な関係が目立つようになった。

 通説においては、秀吉が晩年に行った朝鮮出兵にその原因があったとされている。朝鮮半島の最前線に戦った加藤清正ら「武闘派」の大名たちに対して、後方で物流の管理などを担当していた三成が厳しい対応をしたことが、対立のきっかけになったと説明されている。

 この三成について、歴史学者の本郷和人氏は、次のように述べている。

「……それでぼくは不思議に思ったのです。三成ほど頭のいい人が、なぜ加藤や福島に「お疲れさん」と言えなかったのか、と。お前たちの苦労はよく分かるぞ。オレは補給でがんばってるけど、しょせんは矢弾が飛んでこない気楽な仕事だからな。まあ、これはほんの気持ちだけど、酒宴でも張って英気を養ってくれ…。そんな感じでこまめに声をかけたり差し入れをしたりすれば、加藤や福島だってあそこまで怒らないでしょう」(『真説 戦国武将の素顔』宝島社新書)

 多くの歴史書は、徳川家康が謀略によって、加藤清正をはじめとして豊臣恩顧の武将たちを篭絡し、三成との敵対関係を作り上げたと述べている。

 1598年8月、戦国時代の覇者、豊臣秀吉が逝去した。以後、関ヶ原の戦いまでの2年間は、この時代の権謀術数が集約した、めまぐるしく波乱に富んだ時代だった。

 関が原の戦い自体にも、歴史的な事実を振り返ってみると、奇妙な点がいくつも見受けられる。

 たとえば、そもそも西軍の大将についての問題がある。西軍の大将は、毛利輝元である。この人は戦国大名として高名な毛利元就の孫に当たり、中国地方の支配者だった。武将としては凡庸だったというが、大将でありながらも、なぜか戦場である関ヶ原には近寄ってもいない。

 秀吉が死去した時点で、家康は最大の実力者ではあったが、彼の覇権が確立していたわけではなかった。豊臣家にとって家康は外様大名のひとりであり、家康は自らの政権のためには、豊臣方の大名を取り込む必要があった。

 豊臣方の大名にしてみれば、徳川家は最大のライバル関係にあった存在である。以前より豊臣家の家臣であった彼らとは、元来の出自が異なっている。

 また、豊臣家と徳川家は、小牧・長久手の戦いにおいて刃を交わした仲でもあった。その後秀吉の政治的な手腕によって和解をし、家康が臣下の礼をとることになったが、家康の腹の底までは信用できないと、多くの大名は感じていたはずである。

 さらに、それほど遠くない時代に、豊臣家も、主君であった織田家から、覇権を簒奪した過去を持っている。徳川家が豊臣家と入れ替わることも、予想できない事態ではなかったはずである。

 それにもかかわらず、なぜ関ヶ原の戦いにおいて、福島正則も加藤清正も黒田長政も、長らく仲間であった石田三成と敵対し、東軍の陣営に加わったのか。これは大きな疑問である。

 当時の政治状況をいえば、秀吉亡き後、みなが「大物」と認める大名は、徳川家康以外、みな亡くなるかすでに引退していた。唯一、前田利家が家康に対抗できる存在であったが、彼も、関ヶ原の前年に死去していた。

領国での評判のよさ、秀吉への細やかな気配り

 先に述べた本郷氏は、三成について、さらに次のように述べている。

「関ヶ原の戦いの前には、清正や正則が三成を殺そうとした襲撃事件が起きているわけですが、三成はやはり相当嫌われていたのでしょう。
 だから光成は、やはり反省しないといけない点がいっぱいあるわけで、人間性において、「非常に問題のある人」だったのではないかと僕などは思ってしまいます」(『真説 戦国武将の素顔』宝島社新書)

 けれども一方で、三成は領国においては評判の良い領主であり、官僚としては有能な働きを多数残しているのも事実である。秀吉との出会いについては、次のような逸話がある。

 近江国のある寺院に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後に熱い茶を十分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣とした。それが後の石田三成である。

 もしこのエピソードが事実であれば、三成はかなり気配りのできる少年であったことになるが、後世の創作という説が有力である。

 東日本国際大学教授で脳科学者の中野信子氏は、三成について、次のように述べている。

「アスペルガー症候群ということも考えられますね。三成は、兵站を効率的に管理するロジスティクスの能力は並外れていますよね。だから頭はすごくいいし、合理的な人だったと思います。でも頭の悪い人たちに面と向かい、「そちは本当におろかだな」と言いだしそうなんですよね」(中野信子、本郷和人『戦国武将の精神分析』宝島社新書)

 アスペルガー症候群は、現在の自閉症スペクトラム障害(ASD)に含まれる発達障害で、「空気の読めなさ」に示される対人関係の障害と、特定の事物への興味のかたより(こだわりの強さ)を特徴とする。

 果たして、三成にASDの特徴はあったのだろうか。

 朝鮮出兵の後、三成と他の豊臣家の大名との関係が極めて悪化したのは事実である。それでも秀吉が存命中は、表立ってまでの対立には至らなかったが、その死後、対立は先鋭化した。

 この対立に、あるいは三成の「空気の読めない傲慢さ」が影響していた可能性は否定できない。もっとも、三成は秀吉の天下統一以前より政権の中心人物であり、現在の官房長官と自民党の幹事長を合わせたような役割を担っていた。その物言いが傲慢に響いたのは、ある意味当然だったのかもしれない。

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中野等による『石田三成伝』(吉川弘文館)

アスペルガー症候群の特徴「対人関係の乏しさ」は、三成には見られない

 三成がアスペルガー症候群かどうかについては、時間をさかのぼる必要がある。中野等氏の労作『石田三成伝』(吉川弘文館)によれば、彼の少年時代については、確かな記録はないし、秀吉の部下になった時期もはっきりしていないとしている。

 三成といえば「青白いインテリ」というイメージが強いが、中野氏は、三成が鷹狩りにひんぱんに出向いている事実を挙げ、三成は書斎にこもるインドア派ではなく、果断にことを進める豪胆な人物であったのではないかと推測している。

 実際、秀吉が行った全国の検地においても、三成は自ら東北や九州地方におもむいて、土地の大名、有力者との難しい交渉や、トラブルの収拾にあたった。

 豊臣政権の時代、多くの大名が国替えや減封の憂き目にあったが、三成は彼らに対して細かい心配りを見せ、主家を離れた旧臣を多数召し抱えることをしている。さらに、秀吉の怒りを買って切腹に追い込まれた元関白・豊臣秀次の家臣まで自分の部下にしたのであった。

 また三成は所領において、領民への心配りは際立つものがあった。彼は村々において、仮名交じりの文章で「村掟」を示し、広く領民の信頼を得たことが知られている。

 関ヶ原の戦いにおいて、確かに三成の率いる西軍は家康の策謀によって多くの離反者が出たが、一方で大谷大谷刑部、宇喜多秀家など多くの武将が三成と命運を共にした。部下の名将、島左近をはじめとした石田隊の奮闘は東軍の攻撃をよくしのぎ、大御所の本陣まで脅かすに至ったことも知られている。

 このような事実から考えると、三成はアスペルガー症候群と診断できるような「対人関係の乏しさ、人への興味のなさ」などは見られないばかりか、実際のところは、細かい気配りのできる人間味ある力強い武将であったというのが事実のようだ。

 またアスペルガー症候群のもうひとつの大きな特徴である「こだわりの強さ、常同的な行動パターン」に相当する言動も見られないことから、アスペルガー症候群という診断は当てはまらないと考えるのが妥当であろう。

(文=岩波 明)

岩波 明/精神科医

岩波 明/精神科医

1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の   診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)、『医者も親も気づかない 女子の発達障害』(青春新書インテリジェンス)、共著に『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。

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