関ヶ原合戦で敗れた石田三成、処刑され血脈断絶はウソだった!大名と子孫、各地で延命
救い出された石田三成の子
天下分け目の関ヶ原合戦は、東軍(徳川方)の勝利に終わり、西軍の中心的大名は処刑されてしまい、その血統も途絶えた――。このように思い込んでいる人も多いのではないか。
確かに肥前国宇土の小西行長は、当人のみならず一人息子も処刑され、対馬の宗氏に嫁いだ娘・妙(洗礼名マリア)も婚家を追われ、数年後に長崎の地で寂しく歿し、その血統は絶えている。だが、すべてがそうした命運をたどったのかといえば、そうではない。
意外なところで、西軍大名の血筋が脈々と受け継がれているケースが少なくないのだ。 実質的な西軍リーダーは、佐和山城主の石田三成。敗れたあとに三成は捕縛され、京都の六条河原で首を刎ねられた。ただ、三成の嫡男・重家は、仏門に入ることで助命され、名を宗享と改めて京都妙心寺・寿聖院の住持となっている。ただ、僧侶の身なので妻帯は許されず、子孫を残せぬまま貞享3(1686)年に没した。
しかし、それで三成の血脈が途絶えたわけではなかった。意外にも都から遠く離れた東北は津軽の地に、その血筋が続いているのである。しかもなんと、藩主津軽氏の嫡流になっているのだ。津軽藩は関ヶ原合戦後、三成の遺児を密かに領内にかくまっている。藩祖津軽為信が、三成に多大な恩義があったからだ。
大名になった石田三成の子孫
天正18(1590)年、為信は豊臣秀吉に成敗されそうになったことがある。この時、三成の尽力でその難を免れたのだ。さらに三成は、為信の嫡男信建の烏帽子親も引き受けてくれた。そういった恩義から、為信は三成の子を救ったのであろう。
為信は、関ヶ原合戦で西軍が敗北すると、三成の次男重成とその妹(姉とする説もあり)辰姫(曽野とも)を大坂城から密かに連れ出した。辰姫については、合戦の褒美として徳川家から賜った上野国勢多郡大館(現群馬県太田市)で内々に養育した。やがて彼女が成人すると、為信は次男の側室とした。
この次男こそ、二代藩主となる信枚であった。元和5(1619)年、辰姫は信枚の子・信義を産むが、信枚の正室・満天姫(家康の養女)に男児がなかったことから、信枚の歿した寛永8(1631)年、信義が三代藩主に就任する。すなわち、三成の孫が津軽藩主になったわけだ。ただ、藩主に就いた我が子の晴れ姿を、辰姫は拝むことができなった。信義が5歳になったばかりの元和9年、彼女は32歳の若さで病没してしまっていたからだ。
いっぽう三成の次男重成は、名を杉山源吾と改め、深味郷(北津軽郡板柳町)に10年近く潜んだ後、先述の大館に移された。その後、彼がどのような生涯を送ったかは不明だが、どうやら寛永18年に没したらしい。ただ、重成の子・吉成は、津軽藩に召し出されて1300石を賜り、当人のみならず子々孫々に至るまで重役として藩政にたずさわることになった。このように、三成の血統は、絶えることなく北辺の津軽で相承されていたのである。
島に流された五大老の末裔
宇喜多秀家も、西軍の中心的な大名だった。秀家は豊臣秀吉に寵愛され、備前岡山に大封(57万4000石)を賜り、若くして五大老に任じられた。そんな秀家は、関ヶ原合戦に敗れた後、小西行長や三成のように捕まらず、運良く薩摩へ落ちのび、島津義弘の保護を受けることに成功した。だが、やがて秀家生存の噂が広まっていった。困り果てた島津氏は慶長8(1603)年、加賀の前田利長と相談の上、ついに事実を幕府に告げて秀家の助命を願い出たのである。
前田氏が協力したのは、秀家の妻・豪姫が前田利家(利長の父)の娘だったからだ。結果、秀家は死一等を減じられ八丈島に流されることに決まった。島流しに際して男児2人は同行したが、豪姫を伴うことは許されなかった。豪姫は寛永11年、61歳の生涯を閉じたが、彼女の遺言により、八丈島の秀家のもとには前田家から隔年で金銭や米など、生活必需品が届けられることになった。
いっぽう秀家は、八丈島で代官の娘と結婚、多くの子孫を残して84歳で天寿を全うした。明暦元(1655)年のことだというから、なんと、徳川4代将軍家綱の時代である。さらに驚くべきことに、前田家の仕送りは秀家の死後も継続され、明治維新まで続いたのだ。
宇喜多家が正式に赦免されるのは明治2(1869)年のこと。一族は繁栄して多家に分化しており、本家以外は浮田と名乗るようになっていた。このうち7家70人以上が、翌年に東京へ出てくる。この時、前田家では彼らのために屋敷を整え、1000両を与えて生活の面倒を見たと伝えられる。明治政府も彼らの生計が立つよう明治6年、東京・板橋におよそ2万坪の土地を下賜した。
以上述べてきたように、関ヶ原の合戦で敗れた西軍大名たちの血筋は、脈々と受け継がれてきたのである。
(文=河合敦/早稲田大学教育学部講師、文教大学付属中学校・高等学校教諭)