世界保健機関(WHO)は3月5日、「中国湖北省武漢市で実施した新型コロナウイルスの発生源などに関する現地調査の結果を3月15日の週に発表する」との見通しを示した。当初は「概要を2月中旬に公表し、詳細な報告をその数週間後に出す」としていたが、1度にまとめることになった。
公表方法を変更したことについて、WHOの武漢調査団のエンバレク団長は「この報告書に対する関心があまりにも大きく、概要では人々の好奇心を満たすことができないから」と述べている(3月4日付ウォール・ストリート・ジャーナル)が、米ホワイトハウスの報道官は5日、バイデン政権が関与して、概要の公表を差し止めたことを明らかにした。「データの出所が不透明であり、現時点の調査報告が公表された場合、謝ったメッセージが世界に発信される恐れがあった」というのがその理由である。
報告書は、WHOの国際調査団と中国側が共同で執筆することになっているが、両者の間には見解の相違があるといわれている。WHOのテドロス事務局長は執筆に関し「すべての点で意見が一致する必要はない。異なる意見も併せて記載すればいい。結果はすべて透明性を持って公表する」と語っているが、はたして大丈夫なのだろうか。
エンバレク氏が2月9日に中国で行った記者会見はなんとも歯切れの悪いものだった。主な内容は以下のとおり。
(1) 新型コロナウイルスを人へと感染させた宿主動物はいまだ特定できていない
(2) 同ウイルスが武漢市内の研究所から流出した可能性は低い
(3) 2019年12月以前に武漢市内に同ウイルスが広がっていたと結論づけるには証拠が不十分である
(4) 同ウイルスがコールドチェーン(低温物流)の製品に付着して長い距離を移動した可能性がある。
そのいずれも「中国寄り」であったことから、国際社会の間では「WHOの武漢調査団は、どこまで真実に迫れるのだろうか」との疑念が頭をもたげていた。
発源地が華南水産市場以外の可能性も
しかし、WHOの武漢調査団は帰国後、中国側にとっては極めて都合の悪く、かつ貴重な証言を行うようになった。
武漢市からスイスに戻ったエンバレク氏はCNNのインタビューの中で、「武漢市では2019年12月時点ですでに12種類以上のウイルス株が存在していたことを突き止めた」ことを明らかにした(2月15日付CNN)。中国の専門チームから情報提供を受けて調査した174の症例はいずれも重症だった可能性が高く、この数の多さから判断すると、武漢市では2019年12月時点で1000人以上が感染していた可能性がある(感染者のうち約15%が重症化すると仮定)という。
エンバレク氏は2月18日のオンライン会見で「冷凍食品を通じて新型コロナウイルスが中国に伝わった可能性について検討していない」と述べた。
中国の研究者たちは「新型コロナウイルスのそもそもの発生源はコウモリであり、中間宿主であるセンザンコウを経て人間に感染するようになった可能性が高い」と主張してきたが、2月18日付ウォールストリートジャーナルは「WHOの武漢調査団は、新型コロナウイルスの中間宿主はセンザンコウではなく、ウサギまたはイタチアナグマである可能性があると考えている」と報じた。
WHOの武漢調査団は、最初の感染例があったとされる武漢市の華南水産市場でウサギやイタチアナグマなどの死体を確保し、調査を進めている。センザンコウは絶滅危惧種(高価で密売されている)であるのに対し、ウサギやイタチアナグマは中国南部に多く生息している動物である。
WHOの武漢調査団は「新型コロナウイルスの発源地は、華南水産市場ではなく、他の市場ではないか」と考え始めている。2月26日付ウォールストリートジャーナルは「WHOの武漢調査団は、2019年12月に確認された感染症例174件のうち一部が華南水産市場ではない他の市場と関連している証拠を確保した」と報じた。
パンデミックへの対処は安全保障分野の最重要事項
中国政府が初期の段階で十分な調査を行っていなかったこともわかってきている。エンバレク氏は昨年7月に中国を訪問し簡単な報告書をまとめているが、これを入手した英ガーデイアンは2月23日、「中国政府は新型コロナウイルスが武漢市で発見されてから最初の9カ月間、発源地調査をほとんど行っていなかった」と報じた。
国務長官時代から「武漢市に存在する中国科学院ウイルス研究所が発源地である」と主張してきたポンペオ氏は2月24日付ウォールストリートジャーナルに「武漢研究所は世界のリスク」と題する論文を掲載した。その中で注目すべきは、「武漢ウイルス研究所の研究員たちは過去10年間に約2000種類ものウイルスを発見したが、研究所の管理が甘かったことから、採取されたウイルスに感染した動物がペットとして売られたり、地元の生鮮市場に『売り物』として出されていた」という指摘である。
しかし、米国の圧力が高まる中で、中国がこのような「不都合な真実」を認めることはなく、3月中旬に提出される報告書にどの程度反映されるかどうかはわからない。
パンデミックへの対処は、今や非伝統的な安全保障分野の最重要事項の一つになってきているが、WHOに対する制度的な課題が浮上している。現在、化学剤や放射性物質・核兵器の規制については、国際機関による査察の権限が認められているが、感染症対策を指揮するWHOはこの権限を有していないのである。
EUは昨年11月、「感染症危機管理に関する強力なルールを作るべき」と主張し、WHOはこれに賛成しているが、多くの国々は様子見の姿勢をとっているのが現状である。中国をはじめアジア地域が感染症の発生源となる可能性が高いことから、日本も新たな国際的な枠組みの構築のために尽力すべきではないだろうか。
(文=藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー)