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崇拝された「武田信玄の末裔」…青天を衝けの渋沢栄一も岩崎弥太郎も板垣退助も武田一族?

文=菊地浩之
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戦国時代の武将・武田信玄(画像は高野山・持明院蔵の武田晴信像/Wikipediaより)。三方ヶ原の合戦で徳川家康を打ち破ったことなどから、江戸期以降、“伝説化”が進んだ。

天狗党の総大将・武田耕雲斎は、武田信玄とは無関係

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』第14回(5月16日放送)で、天狗党が挙兵。武田耕雲斎(演:津田寛治)が鎮圧に向かったのだが、第15回(5月23日放送)で藤田小四郎(演:藤原季節)に言いくるめられ、逆に総大将に祭り上げられてしまう。「ミイラ取りがミイラになる」という俚諺を地で行くような話だ(実は耕雲斎の長男の妻が、小四郎の叔母に当たる。つまりは親戚なのだ)。

 武田耕雲斎というからには、武田信玄の子孫か一族のような印象を受けるが、あまり関係がない。武田耕雲斎は旧名を跡部伊賀守(あとべ・いがのかみ)正生(読み方わからず)といって、水戸藩士・跡部家に生まれ、武田勝頼の重臣・跡部大炊助勝資(あとべ・おおいのすけ・かつすけ)の子孫と称している。ところが、この跡部勝資は評判の悪い人物だったので、跡部姓から武田姓への改姓を申し出たのだという。

 徳川家康は三方ヶ原の合戦(元亀3【1572】年)で完膚なきまでに叩きのめされたこともあり、武田信玄を崇拝していた。なので、江戸時代になると甲州流軍学というのがはやり、『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)という、武田家の合戦を記した軍記物が大いにはやった。そこでは、武⽥家が没落したのは、信⽞の⼦・勝頼の側近のせいにされており、そのひとりが跡部勝資だったわけだ。

 跡部家は武田一族ではなく、小笠原家の子孫と称している。だから、武田耕雲斎の家紋は、武田一族が使う「割菱」(わりびし)や「花菱」(はなびし)ではなく、小笠原一族が使う「三階菱」(さんかいびし)によく似た「松皮菱」(まつかわびし)なのだ。

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天狗党の乱は、元治元年(1864年)に水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。鎮圧に向かった武田耕雲斎は、逆に総大将に祭り上げられてしまった。(画像は、明治時代の浮世絵師・歌川国輝による「近世史略 武田耕雲斎筑波山之図」)

実は渋沢栄一も武田一族を自称…「甲斐国の渋沢に縁があって」というが実際は?

 実は『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一(演:吉沢亮)も武田一派を名乗っていたらしい。

 武田氏族の逸見又太郎義重(へみ・またたろう・よししげ)の子、渋沢又二郎義継(しぶさわ・またじろう・よしつぐ)が甲斐国北巨摩郡渋沢村(山梨県北杜市長坂町渋沢)に移り住んで、渋沢を名乗ったというのだ。その子孫が関東管領・上杉家に仕え、武蔵の血洗島に移り住んだというのだが、話半分くらいで聞いておこう。

 逸見家は、厳密にいうと武田一族ではなく、その前に別れた家系で、この一族がよく使う家紋は「五階菱」(ごかいびし)なのだが、渋沢家の家紋は「違柏」(ちがいかしわ)。全然違うじゃないか?

 さて、ここから話が脱線していくのだが、室町時代、逸見家の子孫が若狭(福井県南西部)武田家の家老にいたのだが、織田信長が近畿・北陸の一部を制覇すると衰退し、その領地は織田家臣の溝口秀勝(みぞぐち・ひでかつ)に与えられた。江戸時代、溝口家は越後新発田藩の大名になるのだが、逸見家とはまったく関係がなかったのに、その一族だったと偽系図を作って、家紋も「五階菱」を使い始めた。

 幕末、新発田藩の庄屋の息子に、江戸に出て官軍・幕軍の双方に鉄砲を売って大儲けした御仁がいた。大倉喜八郎という。喜八郎は日本でも有数の金持ちとなり、大倉財閥を設立。息子の大倉喜七郎に、主家の溝口家から嫁さんを迎えて、「成金趣味」だと非難囂々(ひなんごうごう)を浴びた。

 大倉家はちゃっかり「五階菱」を変形させた家紋を使っているので、溝口家からもらった(実際には大金をはたいて買った)のだろう。喜七郎が設立したホテルオークラには、五階菱をあしらった意匠があるという。

【参照記事】新潟日報記事「新潟を思い 五階菱と歩み~ホテルオークラ新潟40年」

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『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一も武田一派を名乗っていたらしいが、渋沢家の家紋は「違柏」。全然違うじゃないか?(写真はWikipediaより)
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三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎も武田一族を自称しているが、家紋から考えると、武田家ではなく、小笠原家の流れと考えたほうが無難だ。(写真はWikipediaより)

渋沢栄一のライバル・岩崎弥太郎も武田一族を自称…確かに武田家の支流に「岩崎家」はあるが

 三菱財閥・三菱グループを創った岩崎弥太郎。弥太郎は渋沢栄一より5歳年長で、明治初年の日本を代表する事業家で、栄一とはまったく考え方が合わず、栄一のライバルだった。

 その岩崎弥太郎も武田一族を自称している。武田家の家祖・石和(いさわ)信光の子に七郎信隆がおり、甲斐国山梨郡岩崎村(山梨県甲州市勝沼町上岩崎・下岩崎)に住んで岩崎を名乗り、弥太郎はその末裔だというのだ。

 確かに武田家の支流に岩崎家はあるのだが、弥太郎がその子孫かといえば、それはまた別の話だ。岩崎家の家紋は「重ね三階菱」で、家紋から考えると、武田家ではなく、小笠原家の流れと考えたほうが無難だ。

 しかも、弥太郎が生まれた土佐(高知県)の隣国・阿波(徳島県)は三好長慶で有名な三好家がいる(昨年の大河ドラマ『麒麟がくる』で、三好の家臣・松永久秀[演:吉田鋼太郎]が三階菱の旗印をなびかせていたのを覚えている方が、ひょっとしたら、いるかもしれない――いないとは思うが)。三好家もまた小笠原家の子孫なのだ。

 ちなみに「三菱」のいわれは、岩崎家の家紋「三階菱」に由来している。岩崎家の主家・山内家の家紋「三つ柏」と「三階菱」を合成して作ったマークなのだ。

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岩崎家の家紋は「重ね三階菱」なので、小笠原家の流れと考えたほうが無難だ。大倉家はちゃっかり「五階菱」を変形させた家紋を使っているので、溝口家からもらったのだろう。

板垣退助も武田一族を自称し、戊辰戦争で甲府を制圧する際「武田一族」で人心収攬

 土佐といえば、自由民権運動で有名な板垣退助も武田一族の子孫を自称している。

 退助は旧名を乾退助正形(いぬい・たいすけ・まさかた)、土佐藩山内家の家老・乾家の分家に生まれた。乾家自体は土岐家の子孫を称し、武田一族とは関係がない。

 退助の家には伝説があり、その祖先は武田信玄の家老を務めた板垣信方(のぶかた。信形とも書く)の子・板垣正信で、正信が武田家滅亡後に京都で放浪中、乾家に拾われ、その養子となったというのだ。

 退助は戊辰戦争で土佐藩兵を率い、天才的な軍略家として各地で勝利を挙げた。その途中、幕府の天領・甲府を制圧するに当たって、「武田二十四将の一人・板垣信方の末裔」を名乗って板垣と改姓、人心収攬を図った。板垣信方は、跡部勝資と違って人気があったので、効果があったらしい(過去のNHK大河ドラマでは菅原文太(1988年『武田信玄』)や千葉真一(2007年『風林火山』)が演じており、器の大きな人物に描かれていることが多い)。

 ちなみに、明治維新後の高知市内は、いたるところで板垣派と岩崎派に分かれて派閥争いに明け暮れていたという。岩崎弥太郎の性格によるものなのか、武田一族の内輪揉め気質なのかは定かでない。

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自由民権運動の主導者・板垣退助も武田一族の子孫を自称。幕府の天領・甲府を制圧するに当たって、「武田二十四将の一人・板垣信方の末裔」を名乗って板垣と改姓、人心収攬を図ったという。(写真は1906(明治39)頃の本人/Wikipediaより)

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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