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誰も知らないアントニオ猪木の真実…根治困難な全身性の難病の正体、有効な薬も乏しく

文=編集部、協力=上昌広/血液内科医、医療ガバナンス研究所理事長
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YouTubeチャンネル「アントニオ猪木『最後の闘魂』」より

“燃える闘魂”でお馴染みのプロレスラーで元参議院議員のアントニオ猪木は、11月27日放送のテレビ番組『燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ~』(NHK・BSプレミアム)に出演、「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」という難病にかかり闘病中であることを告白した。

 猪木の幼少期から青年期にかけては、まさに壮絶という言葉が当てはまる。5歳のときに父親が病死した後、実家の石炭問屋は倒産。極貧生活を抜け出すために猪木は13歳のとき、一家でブラジルに移住するも、現地のコーヒー農園で早朝から夜までの過酷な肉体労働を強いられる。

「猪木はテレビのインタビューなどで当時を振り返る際、目に涙を浮かべながら語ることも。想像を絶する過酷さだったことが窺える」(スポーツ紙記者)

 しかし、その地で運命的な出会いが猪木を待っていた。コーヒー農園での奴隷労働から解放されサンパウロの青果市場で働いていた猪木の強靭な肉体が、たまたま興行で現地を訪問していた当時国民的人気を誇っていたプロレスラー・力道山の目に留まり、力道山に誘われるがままに猪木は帰国。1960年、17歳で猪木は日本プロレスに入門し、プロレスラーとしての人生を歩み始める。

 そして同年9月30日、アントニオ猪木はデビュー戦を迎えるが、その後に猪木と共に日本のプロレス界を牽引する存在となるジャイアント馬場と、奇しくも同じデビュー日となったことは、多くのプロレスファンに知られるところである。若き日の馬場と猪木は“BI砲”(馬場の『B』と猪木の『I』)として、ときにタッグを組むなどして日本プロレスを盛り上げたが、71年に猪木は日本プロレスを除名になったのを機に、新日本プロレスを設立。馬場も日本プロレスを退団し、72年に全日本プロレスを設立。以降、日本のプロレス界の歴史はこの2つの団体を土台に形成されていくことになる。

「新日の立ち上げ当時に猪木と結婚していたのが、女優の倍賞美津子(87年に離婚)。倍賞は自ら新日の宣伝カーに乗り込みウグイス嬢をしたり、金策に駆け回ったりと、新日設立の功労者であることは有名な話。倍賞はインタビューでも当時を振り返り、猪木のことを“アントン”と呼び、“当時は本当に楽しい日々だった”と語っているが、2002年に東京ドームで行われた新日の30周年大会で、猪木がリング立つなかで倍賞がサプライズ登場し、歴史を知る観客たちがドッと沸いたこともあった」(スポーツ紙記者)

馬場と猪木の奇妙な関係

 馬場の全日本は興行という要素を重視する“王道プロレス”、猪木の新日本は“ストロングスタイル”と呼ばれ、よく対比されることもあるが、別のスポーツ記者はいう。

「両団体がスタイルの違う要素を持ったことで、嗜好の異なるファンの受け皿が広がり、結果としてプロレスファンの裾野を広げたことは事実。ちなみに袂を分けた2人が、日本プロレス退団後に戦ったことはないが、79年頃に1度だけ馬場猪木のシングルマッチの話が浮上し、実現直前まで進んでいたことは複数の証言者によって明らかにされている。

 よく2人はずっと敵対関係にあったと思われがちだが、いがみ合っていたわけではないし、対面で会えば“兄貴と弟”という関係に戻っていたといわれている。馬場は猪木の5歳年上でBI砲として日本プロレスの看板レスラーだったのと同時に、それこそ寝食を共にしていた。ただ、日本プロレスでは常に猪木は馬場に次ぐナンバー2という位置づけで、団体も何かと馬場を優遇していたため、猪木のほうがずっと馬場に対して複雑な感情を抱いていたという見方もある。

 直接対決の話も、完全に猪木のほうから方々に話を仕掛けていたもの。読書家で現実派の馬場とは対照的に、ギラギラとした野心のようなものが常に猪木をかきたて続けていた。それが異種格闘技戦の実現や政界への進出などにつながったのではないか」(スポーツ紙記者)

 そんな野心が結実したのが、76年から始まった「格闘技世界一決定戦」だ。猪木は当時の日本では前代未聞の異種格闘技戦を実現。各格闘技界のトップクラス選手との戦いに挑み、“熊殺し”の異名を持つ空手家ウィリー・ウィリアムスやボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメッド・アリらと死闘を繰り広げ、アリ戦は世界各国に中継された。ちなみに、のちに猪木はプロデューサーとして「PRIDE」の運営に携わり、日本に異種格闘技戦というスタイルを定着させていくことになる。

 その後、猪木は、98年に東京ドームで行われたドン・フライとの引退試合まで、新日を牽引しながら数々の名勝負を繰り広げる傍ら、89年には江本孟紀らとともにスポーツ平和党を結成し、参議院選挙に出馬、当選し政界への進出も果たす。

「自身の引退に向けたシリーズ『INOKI FINAL COUNT DOWN』の第1戦で猪木は、グレート・ムタに扮した弟子の武藤敬司と激突。ムタから顔面に毒霧を浴びせられ、場外の記者席の上でパイルドライバーを食らわせられたり、鉄冊にぶん投げられたりした猪木が、額から流血しながらマジでブチ切れして武藤をチョークスリーパーで落とした。猪木、そして猪木のDNAを引き継いだ武藤の凄みを感じる試合だった」(スポーツ記者)

 まさに“燃える闘魂”を地で行くような熱い人生を送ってきた猪木だが、今年1月からは腰の悪化で入院が続いており、5月には腸捻転で緊急手術を実施。ベッドの上から更新を続けていたYoutube動画内のやせ細った猪木の様子には心配の声も寄せられていたが、今回のNHK番組では難病とも戦っていることが明らかとなった。

蛋白質が臓器や組織に沈着

 この「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」とは、どのような病気なのか。血液内科医で元東京大学医科学研究所特任教授の特定非営利活動法人・医療ガバナンス研究所理事長、上昌広氏は次のように解説する。

「全身性トランスサイレチンアミロイドーシスとは、トランスサイレチンという蛋白質が臓器や組織に沈着することにより引き起こされる疾患である。遺伝により病的なトランスサイレチンをつくり出すタイプと、なんらかの後天的な理由でトランスサイレチンの代謝に異常が生じ、体内に蓄積するタイプに分かれる。後者は70歳代以上の男性に多く、猪木氏は、このタイプと考えられる。

 臨床症状は、トランスサイレチンが蓄積する臓器の異常として現れる。問題になりやすいのは、心筋症と神経障害である。具体的には、心不全、両側手根管症候群、腰椎脊柱管狭窄症、および腱断裂などの形をとることが多い。

 治療薬としては、タファミジスメグルミン(商品名ビンダケル、ファイザー)が開発されている。この薬剤は、体内でトランスサイレチンを安定化させ、組織への沈着を抑制する。ファイザー社が行った第三相臨床試験では、プラセボと比較し、すべての原因による死亡を30%、心血管疾患関連の入院を32%低下させた。現在、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスの治療として、有効性が証明されているのは、タファミジスメグルミンだけである。これ以外の治療は、心不全や神経障害への対症療法である。

 タファミジスメグルミンの開発は、この病気の治療開発で大きな一歩だが、現時点で根治にはほど遠い。いったん発症した場合の治癒は望めない。高齢者での発症が多いこともあり、心不全など重要臓器が冒された場合の予後は絶対的に不良である」

(文=編集部、協力=上昌広/血液内科医、医療ガバナンス研究所理事長)

 

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