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三池純正「歴史はこんなに面白い!」

徳川家康を二度撃退した幻の上田城 金箔瓦の豪華絢爛な城だった?

文=三池純正/歴史研究家

徳川家康を二度撃退した幻の上田城 金箔瓦の豪華絢爛な城だった?の画像1上田城(「Wikipedia」より/Ans~jawiki)
 長野県上田市の中心街にある、上田城。春になると、たくさんの桜が城を背景に咲き乱れ、市民の憩いの場としても知られている。

 この上田城は、真田昌幸が築城したことでも知られており、本丸跡には真田神社という、真田氏を祀る神社が建てられている。また、上田城は、当時最強といわれた徳川軍を真田氏が二度にわたって撃退した舞台でもある。

 しかし、今は公園となっている城内を歩いてみると、規模は小さく、近年再建された櫓や門などの建物も、質素そのものという感じがする。本当にこの小さな城で真田氏が徳川の大軍を破っていたとしたら、まさに快挙といえるだろう。

 実は、現在残っている上田城は真田氏の時代のものではない。真田氏の後に上田に入った仙石忠政が築き直した城である。真田氏の時代の上田城の規模や周辺の様子などについては、今もまったくわかっていない。

 慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで、昌幸と信繁(幸村)の親子が徳川家康に敵対したことから、2人は和歌山の九度山に流される。そして、徳川軍をさんざん苦しめた上田城は、家康の命令により、痕跡をとどめないほど破壊され、埋められてしまったのである。

上田城に存在した? 「金箔瓦」の謎

 古代史の謎とされる「オーパーツ」というものがある。その時代には存在するはずのない事物のことだ。例えば、まだ人類が存在しないはずの時代の地層から金属製のねじが見つかった例や、飛行機がない時代につくられたと思われる、スペースシャトル風の飛行物体のオブジェなどがそれだ。

 実は、この上田城にもオーパーツが存在している。第二次世界大戦前、上田城の二の丸の外れで、信じられないものが見つかっているのだ。

 瓦に金箔を施した「金箔瓦」という一品である。現在、その実物は上田市立博物館に陳列されているが、質素で小さな上田城には似つかわしくない豪華なものである。

 金箔瓦は、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂(おおざか:現在の大阪)城や伏見城など、豪華絢爛な天下人の城に使われたものであり、一般の大名が使える代物ではない。

 それが上田城から発見されたのだから、まさにオーパーツというほかない。それが本当に上田城のものだったとしたら、現在から類推する上田城とはまったく違う、もうひとつの上田城が同じ場所に存在したことになる。

 最初の発見後、城跡の公園整備に伴う工事や、本丸の堀の浚せつなどの際にも、金箔瓦は見つかった。しかも、鯱(しゃち)瓦、鬼瓦、鳥衾(とりぶすま)瓦などの本格的な金箔瓦が次々と出土したのだ。

 これらを鑑みるに、上田城には、金箔瓦で屋根を葺かれた豪華絢爛な建物があったと考えるのが自然だが、そんなものが質素な上田城にあったとはとても思えない。

 しかし、「質素な上田城」というのは、あくまでも現在の姿である。さらに、前述したように、今の上田城は仙石氏が築き直したものだ。真田氏の時代、上田城は豪華絢爛な姿を誇っていた、という可能性もあるだろう。

 ただし、後から入った領主が前の領主の城よりも劣るような城を築くというのは考えにくい。城は領主のシンボルであり、領民に対してその力を見せつけるものだからだ。

 前の領主よりみすぼらしい城を築いたら、領民たちはそれだけでその領主の力を疑うに違いない。はたして、仙石氏がそんなことをするだろうか。

謎に満ちた「幻の上田城」

 関ヶ原の戦い後に破壊された上田城を描いた古図を見ると、「ウメホリ」「畑」などと記されている。真田氏の時代の上田城の堀はすべて埋められ、城跡は破壊されたままの状態で、原っぱか畑になっていたようだ。

 しかし、仙石氏が上田に入るにあたって、幕府は仙石氏に上田城再築の許可を出した。そこで、仙石氏は埋められていた堀を掘り返し、石垣を築く再築工事を始めた。

 仙石氏が上田に入った元和8(1622)年は、江戸幕府が出した法令「武家諸法度」により、築城が大きく制限されていた。きらびやかな城や、立派な城をつくるのは、もってのほかだ。

 さらに、築城の陣頭指揮に当たっていた城主の忠政は、工事の途中で亡くなっている。そんな事情が重なり、上田城は質素な姿で築かれたのである。

 そのため、上田城は本丸部分を除いて未完成だったといわれる。本丸には天守閣などはなく、それに代わる櫓も二層程度のものが七基あっただけだ。本丸に門と櫓を配しただけで、二の丸や三の丸には櫓はおろか塀もなかった。まさに、簡素な城だったのだ。

 そんな未完成な城に、金箔瓦など使われるはずがない。ましてや、武家諸法度で築城を厳しく制限している江戸幕府が、豪華な瓦の使用を認めるはずはないだろう。

 そう考えると、この金箔瓦は仙石氏が再築した上田城ではなく、その前に存在していた真田氏による「幻の上田城」のものであると考えられる。

 さらに、金箔瓦の出土地点をよく調べてみると、本丸西の堀に集中している。真田氏の時代の上田城が壊された時、その壊された建物は、瓦と共に本丸の堀に捨てられてしまったのではないだろうか。

 その後、本丸の堀も埋められてしまったため、金箔瓦は長い間地中に埋もれていた。そういった推理ができる。

 この金箔瓦の発見は、真田氏の時代の上田城が、現在とはまったく違う、金箔を施した瓦で屋根を葺いた、豪華な姿だったことを物語っている。

 しかし、上田城を築いた当時の真田氏は、石高も3万5000石ほどで、とても大きな大名といえる存在ではなかった。その真田氏が、なぜこんな豪華な城を築くことができたのだろうか。真田氏の時代の上田城は、謎に満ちている。

 真田氏の時代の上田城に天守閣があったかどうかはわからないが、金箔瓦が本丸西の堀から集中的に発見されていることから、本丸の西側には屋根が金箔瓦で葺かれた立派な建物があったことは確実だ。もしかしたら、それが天守閣だったのかもしれない。

 この金箔瓦は、真田氏のもうひとつの居城であった群馬の沼田城からも発見されている。真田氏は、2つの城に金箔瓦を使用していたということだ。
(文=三池純正/歴史研究家)

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