71年の正月、越後社長が瀬島さんにこう伝えたのが始まりだったようだ。「なんとしても三菱、三井より先に中国貿易に復帰したい。しかも極秘裏にだ。その作戦をあんたに任せたい」と。大阪の繊維商社だった伊藤忠を大きくし、三菱商事や三井物産といった財閥系の商社を追い抜くためには、成長著しい中国での事業成功を除いては考えられない。越後社長はそう思った。この作戦が外務省や他の商社に漏れれば支障が出る。失敗は許されない案件だ。越後社長は全幅の信頼をおいていた瀬島さんに実行を指示した』
『71年1月、藤野は瀬島に呼び出され、中国ビジネス復帰プロジェクトの話を切り出された。「私は社長の意を介して動く。君が僕の手先になって進めてほしい」と。誰にも言えない秘密の作戦だった。目標は72年春。2人で1年間の詳細な日程を組んだ。いつまでに何をすべきなのか。台湾や韓国との商材をどうするのか。どういう形で中国に復帰するのか。そのための作戦だ。』
『瀬島は情報収集のため藤野を香港に潜入させた。機密保持のため藤野は家族にさえ渡航目的を告げなかった。藤野は華僑ビジネスマンとの人脈、香港の新聞の情報などから、中国関連で確度の高い情報を集め、毎日、瀬島に報告した。瀬島はもちろん社長と毎日話しあっていた。瀬島自身は日本政府はもちろんのこと、台湾や韓国政府への根回しを進めた。中国貿易を復帰するには台湾企業などとの取引を取りやめる「周四条件」を受けいれなければならない。伊藤忠はダミー会社を作り、双方との取引を継続しようとしたが、そのために工作が必要だった。瀬島は韓国や日本の政権中枢にものすごい人脈を持っていた(瀬島の韓国人脈はつと有名だ)。』
71年12月、伊藤忠は中国への復帰の意思を正式に発表。72年早々中国から思わぬ知らせが届く。越後の訪中を条件に、ダミー会社でなく伊藤忠本体での中国貿易を認めるとの内容だった。同年3月。中国は伊藤忠を友好商社に認定して取引開始を正式に通達した。この時から伊藤忠は親中国の総合商社になったわけだ。
財閥系商社に先駆けて中国事業再開を果たした伊藤忠は「中国事業に最も強い商社」という地位を築く。
■ユニクロ(ファーストリテイリング)の柳井正会長兼社長と沢田貴司・元副社長
沢田貴司は1997年5月に伊藤忠商事からファーストリテイリングに転じ、中国の生産拠点整備などを陣頭指揮し、ユニクロ・モデルと呼ばれる製造小売り(SPA)の仕組み作りに大きな役割を果たした。ユニクロに入社した1年後には既に、柳井社長はその手腕を見込み、「次期社長に」と本人に伝えている。しかし、結局、02年5月末に副社長を退任して独立した。
ユニクロ・モデルと呼ばれるSPAの仕組みを作り上げたのは沢田。CFOとして財務を仕切っていた森田政敏常務(1998年入社)も伊藤忠からの転身組だ。ここでも伊藤忠の存在がクローズアップされるわけだ。ユニクロ・モデルは三菱商事とニチメン(当時、現・双日)の総合商社2社にリスクを取らせるかたちで(ということは、ユニクロはリスクを取らない)生産拠点を中国に着々と整備した。