りそなホールディングスのトップを9年間務め、公的資金完済に一定のめどを付けた細谷英二(ほそや・えいじ)会長が11月4日午前、病気のため東京都内の自宅で死去した。67歳。熊本市出身。葬儀は近親者のみで執り行う。後日、お別れの会を開く予定。
「ポッポ(鉄道)屋に銀行経営ができるのか」
2003年6月、東日本旅客鉄道(JR東日本)副社長だった細谷英二氏が、りそなHD会長に就任した時、その手腕を疑問視する声が圧倒的に多かった。熊本弁がかすかに残る朴訥とした語り口、細身で小柄な体、ひ弱な印象が強い。経営危機に陥った、りそなの再建には力不足に見えたからだ。
巨額の不良債権を抱えて経営に行き詰ったりそなグループに、2兆円規模の公的資金を注入し、03年5月に特別支援行第一号として政府の管理下に置いた。実質国有化である。預金は全額保護され、株式の上場は維持された。グループ首脳陣は引責辞任し、代わりに、りそな再生の先頭に立つHD会長として白羽の矢が立ったのが、経済同友会副代表幹事の細谷氏だった。
同氏は、小泉純一郎政権の当時のブレーンだった牛尾治朗・ウシオ電機会長の推薦で会長に就任することになった。牛尾氏は経済同友会代表幹事で、最後の財界世話人と呼ばれていた。
92年、中国の国営企業の改革の参考にと、細谷氏は国鉄改革の経緯を現地で講演した。6枚つづりの資料を、参加者たちは次々にコピーして読みふけったというエピソードが残る。細谷氏の講演を間近で聞いた牛尾氏は「骨のありそうな奴だ」と思った。これが2人の出会いである。「お前、民営化論でメシが食えるぞ」。この時の牛尾氏の一言が、細谷氏の人生を決めた。
小泉政権から、りそなトップの人選を頼まれた時、牛尾氏の頭に細谷氏の顔が浮かんだ。外柔内剛。再建するには銀行とのしがらみがなく、旧国鉄時代の修羅場にも動じることがなかった細谷氏のような男が最適だと考えた。
細谷氏は東京大学法学部を卒業し、国鉄に入った。国鉄民営化の際には、井手正敬氏、松田昌士氏、葛西敬之氏の国鉄改革3人組の議論を整理する役回りだった。改革派の参謀とみなされた細谷氏は、大阪・天王寺鉄道管理局に左遷されたこともあった。
そのままJR東日本に残れば、JR東日本の子会社の中で最大の東日本キヨスクの社長の椅子が用意されていた。りそな入りを決断するにあたって、「経営者というのはプロフェッショナルの仕事なのだ。その技術を身につけた以上、世の中で生かすべきではないのか」という牛尾氏の一言が決め手となった。