著:岩波明/新潮社
「以前から好きな文学作品について、自由に書いてみたかったんです。小説や映画には、精神疾患を扱ったものが数多い。そうした物語がなぜ幅広い読者に受け入れられているのかを、一度考えてみたいとも思っていました」
そう語るのは、文学作品を精神医学の視点から論じた『精神科医が読み解く名作の中の病』(新潮社)の著者・岩波明氏。氏は1959年、横浜生まれ。現役の精神科医として活躍するかたわら、医療現場の問題点を浮き彫りにしたルポルタージュ『狂気という隣人』『狂気の偽装』(共に新潮文庫)などの著作を発表し、精神医学の実態を一般読者にも分かりやすく伝えている。
最新作『名作の中の病』で取り上げられているのは、国内外の文学作品63作。芥川龍之介の『歯車』、ドストエフスキーの『賭博者』といった古典的な名作から、村上春樹『ノルウェイの森』や小川洋子『博士の愛した数式』のような映像化されたベストセラー、高村薫や島田荘司などの骨太なミステリー、さらにはSFや戯曲まで、著者の活字マニアぶりをうかがわせる幅広い作品を紹介している。
「編集部からリクエストされた本も一部ありますが、基本的には僕の好みでチョイスしています。条件は、なんらかの形で精神疾患が描かれていること。できるだけ多くの病気を紹介したかったので、極力重複が出ないようにも気をつけましたね」
精神科医の立場から眺めると、文学作品もこれまでとまったく違った顔を覗かせる。
例えば、日本でも人気の高いアメリカの小説家J・D・サリンジャーの短編『バナナフィッシュにうってつけの日』を見てみよう。主人公の青年シーモアは、滞在中のホテルのベッドで唐突に自らの頭を撃ち抜き自殺してしまう。この唐突なピストル自殺は、これまで読者のさまざまな臆測を呼んできたが、岩波氏によれば、これは「統合失調症」の症状と見なすことができるという。
「普通に読んでしまうと『この死に込められた文学的な意味は?』と考え込んでしまうところですが、作品に描かれたエキセントリックな言動から見て、シーモアはおそらく統合失調症です。そう思って読むと、シーモアの言動にすべて納得がいく。統合失調症の患者さんは、実際突発的に自殺してしまうことがよくありますから」
ほかにも、デヴィッド・フィンチャー監督が映画化したミステリー『ミレニアム』の孤独なヒロイン・リスベットと「アスペルガー症候群」の関係、夏目漱石による青春小説の金字塔『坊っちゃん』に見られる「うつ病」の影響など、目からウロコの指摘が満載だ。といっても、私たちの文学鑑賞に水を差そうという野暮なスタンスの本ではもちろんない。
「村上春樹の『ノルウェイの森』のヒロイン・直子は、統合失調症と思われる精神疾患を患っていますが、かなりロマンティックな描かれ方をしているんですね。直子は主人公・ワタナベとの性交渉がきっかけで病気が顕在化したと書かれているんですが、現実にはこういう例はあまりない。実際は病気が慢性期に入ると鋭敏さが消えてしまって、だらしなく弛緩した感じになっていきます。つまりリアルな精神疾患は、村上さんが描くような美しいものではないわけです。でも、文学の場合はこれでもいいと思う。ありのままの悲惨な現実を描いても、小説としては面白いものにはならないでしょうからね」
そう言って笑う岩波氏。医師としての冷静な視線と、文学愛好家としてのロマンティックな視線の2つがバランスよく共存しているところに、本作の面白さがあるのだろう。
「小説を味わうというベクトルと、医学的に見るというベクトル。私が本を読む時には、この2つを同時に行っているような気がします。精神科医だからといって、読書を楽しめないということはありませんよ(笑)。例えば、リチャード・ニーリィというアメリカの作家が、『殺人症候群』という連続殺人鬼もののサスペンス小説を書いています。描かれている精神医学的な知識は正直言ってかなり怪しいものですが、ミステリーとしては世界ベストテン級の傑作に仕上がっている。僕も大好きな作品です。文学の世界では、作家の力量が医学的な正確さを凌駕してしまうこともあるんですね」
今回、岩波氏の医学的な分析は、名作を遺した作家たちにも向けられている。
女性の身体に対してフェティシズムを抱いていたノーベル賞作家・川端康成。幻覚や妄想に苦しめられていた芥川龍之介。不潔恐怖で、細菌が怖くてたまらなかったという泉鏡花――。こうした病にまつわるエピソードの数々は、唯一無二の作品世界を生み出した文豪たちの楽屋裏を、私たちに覗かせてくれるだろう。
「『文豪はみんな、うつ』(幻冬舎新書)という本でも詳しく紹介しているんですが、奇行で知られた夏目漱石や、自殺してしまった太宰治は、うつ病だったと考えると腑に落ちる部分が多い。スケールの大きな作品を遺した文学者たちは、みな何かしらの『狂気』を孕んでいたともいえます。精神疾患や破滅的なぎりぎりの生活が、深い文学を生み出す原動力になった。平凡な市民生活を送っている作家からは、時代に遺るような名作は生まれてこないのかもしれません」
名だたる文豪たちを診断するに際しても、岩波さんはあくまで“一現場の精神科医”であることを忘れない。
「『病跡学』という学問がありますね。歴史上よく知られた人物を精神医学的に研究してゆく、という学問ですが、研究者の立場や考え方によって結論がずいぶん変わってくる。思わず首をひねりたくなるような強引な論文もあります。今回は頭でっかちの議論にならないように、あくまで“リアルな医療現場からはこう見えるよ”という立場を貫くようにしました」
私たちはつい「精神医学」「精神疾患」という言葉を、日常からかけ離れたものとして捉えてしまいがちだ。しかし、本書を読むと、それらが決して遠いものではないことに気づかされるだろう。精神医学を謎めいたベールから解き放とう、というスタンスは、岩波氏の著作に共通しているものだ。
「別に読者を啓蒙しよう、という高い志はないんですけどね(笑)。この分野には根拠のはっきりしない俗説がかなりあって、それが一般にそのまま受け入れられている、ということがよくあるんです。僕はなるべく俗説じゃないものを、読者の皆さんに伝えていきたいなと思っているんです」
うつ病、不安神経症、アスペルガー症候群、多重人格――。小説だけではなく、映画でもアニメでも、「狂気」を描いた物語は今日も生まれ続けている。私たちがこうした物語に否応なく惹かれるのは、いったいなぜなのだろうか?
「病気というフィルターを通すことによって、普段見ることのできない世界が一瞬照らし出され、より広く、深く世界を感じることができる、ということなのかもしれませんね。人間には興味本位ではなく本質的に、『異常な精神』に惹かれてしまう部分があるんじゃないでしょうか」
医学と文学が交わる場所を、絶妙なバランス感覚によって解き明かした『名作の中の病』。人間の不思議さを描いた本としても、未読の名作に出会えるブックガイドとしても楽しむことができる、すべての本好きにおすすめしたい一冊だ。