17日・18日は大学受験生たちにとって“勝負”の日となった。日本全国で「大学入試センター試験」が行われるのだ。特に国公立大学を目指す受験生にとっては、このセンター試験を突破することが最初の関門となるため、万全を期して挑んだだろう。
さて、「受験」の主役はもちろん受験生だが、受験生たちを支える人々――家族であったり、学校の教員であったり、予備校の講師であったり――にとっても受験は「ドラマ」だ。
特に教員にとっては、生徒たちへの教育の集大成であり、そして生徒たちの未来を決める最も重要な局面となる。だから、教師たちは受験に熱くなる。入り混じる心配と期待。その人間模様は、手に汗握るものがある。
西大和学園高等学校は、関東ではあまり知られていないものの、関西地方では知名度の高い私立進学校だ。東京大学・京都大学の合格者数は、2013年度が111人。これは開成高校、灘高校に次ぐ第3位の数字だ。2014年度は96人だったが、それでも、開成、灘、筑波大学附属駒場高校、洛南高校に次ぐ5番目の多さである。
開成も灘も伝統ある進学校だが、この西大和学園は1986年に開校されたばかりの若い高校だ。しかも開校当初から進学校だったわけではなく、当時は「中堅公立高校のすべり止め」という位置づけだった。では、どのようにして進学校に変革できたのか?
『田舎の無名高校から東大、京大にバンバン合格した話』(田野瀬良太郎/著、主婦の友社/刊)は、学校法人西大和学園初代理事長の田野瀬良太郎氏が「日本一の進学校」作りを目指し奮闘してきた30年間を明かした一冊だ。
■“学級崩壊”状態から脱却した教師たちの意識改革
前述の通り、「中堅公立高校のすべり止め」としてスタートした西大和学園。授業が開始して間もなくは
・「授業に飽きた」といって、勝手に教室から出てしまう子
・「気が向かない」といって学校にすら出てこない子
・外へ出ればケンカや迷惑行為は当たり前
といった具合で、教員が駆り出されない日はなかったほどだという。さらに1980年代当時はヤンキーやツッパリを気取る生徒も多く、窓ガラスやげた箱のドアを修理する業者が絶えず出入りしていたそうだ。
このままではいけない。学校の存続を考えて、進学校にしたい。そう考えていた田野瀬氏は、夏休み前の職員会議で進学路線への変更を打ち出す。
賛同者はたった2人。夏休み明けの職員会議では、カリキュラムの変更に賛同できないという教員たちと、賛同者たちが一触即発の場面もあった。無理もない。年度真っ只中の異例の変更だ。椅子を蹴って出ていこうとする教員を押しとどめるなど、2人の進学路線推進派の熱意ある説得が2時間続いた。
この本に書かれているエピソードの多くは、熱意によって動かされている。いわば“体育会系”の変革だ。
教員たちは生徒たちに「一緒についてきてほしい。先生たちを信じてほしい。責任は全部持つ」と伝え、必死に進学校への路線変更に取り組む姿を見せた。その姿に、生徒たちは呼応したのだった。