【日航機墜落30年】御巣鷹の村、日航の「下請け化」=経済的依存が深まる歪んだ関係
今年は事故発生から30年。現場近くに住むノンフィクションライター・清泉亮氏は7月に『十字架を背負った尾根』(草思社)を上梓、これまで言及されることがほとんどなかった上野村民の姿を描いている。
今回は清泉氏に、
・上野村民が日航に依存する歪んだ関係の実態
・高齢化、過疎化に悩む上野村の現実
などについて話を聞いた。
–上野村について教えてください。
清泉亮氏(以下、清泉) 正直に申し上げて、村民と日本航空の関係は、非常に難しい局面を迎えています。墜落現場の通称「御巣鷹の尾根」は国有林だったのですが、事故を受けて払い下げが行われ、公益財団法人「慰霊の園」が所有しています。村と日航が共同管理を行い、財団法人の理事長は上野村長が務めてはいます。とはいえ、基金の運営状況は厳しく、年々、日航の寄付金頼みという状況が強まっています。
–今年の7月15日、日航の植木義晴社長は定例会見で、「公益財団法人慰霊の園への支援や慰霊式典への参加につきましては、今後もご遺族のお気持ちに寄り添いながら続けさせていただきます」と発言しています。
清泉 トップとして本心の言葉でしょう。ですが現場を見る限り、経済原則に従って日航側の優越感と、それを受ける村側との少々、歪んだ関係性は明らかです。日航は「自分たちが資金を提供しているんだ」という一種のスポンサー意識を持っていますし、村側は日航に遠慮し、なかなかものが言いにくいという心理的隘路に陥っています。
そもそも日航は、この「慰霊地の扱い」を広報ではなく、総務に担当させています。総務なら「会社をいかに守るか」という論理を優先させがちなのは必然でしょう。組織の論理に「上野村との共存共栄」が含まれていたとしても、実際のところは「組織防衛」という観点から30年前の事故や、現在の村や尾根を見つめざるを得ません。
日航と上野村の歪んだ関係
–「ものを言えない」村民の姿とは、具体的にどのようなものでしょうか?
清泉 昨年、羽田空港にある安全啓発センターを訪れたときのことです。たまたま羽田空港に寄った際に足を延ばしたのですが、現在、そこは日航のホームページから事前に申し込んだ人以外は見学できない仕組みでした。警備員から「どんなに遠方から来た人でもダメだ」「この間は大阪から来た関係者にも帰ってもらった」と門前払いされそうになったので、「御巣鷹山のほうから来た」と伝えたところ、「たまたまその日の見学予定に欠員が出たのでどうぞ」と通されました。
そうして入場した見学センターで、案内をしてくれたベテランの女性担当者と雑談になった折、「御巣鷹山では、地元の人たちもがんばっています」といった話をしました。すると、その晩地元に戻ると村民の男性から怒髪天を衝く勢いで怒鳴られました。
「おまえ、今日、羽田に行ったのか。電話がかかってきたぞ。そこで俺の名前を出したのか。俺の名前を出すんじゃねえ」
私は「上野村の皆さんはがんばっています」という雑談をしただけだったのですが、日航の総務担当者はすぐ上野村に電話をしたのです。私の推測ではありますが、その電話で「村の○○さんの知りあいの清泉という人物が来た」と言っていたのでしょう。そして、「知りあい」と名指しされた彼は、怒り心頭で私を怒鳴ったのです。
–なぜ、その男性は清泉さんを怒鳴ったのでしょうか?
清泉 彼は財団法人の非常勤職員です。恐らく、私が見学の件で「ゴリ押し」をして、日航の機嫌を損ねたのではないかと心配したのでしょう。臨時職員らの予算だけでも年間およそ500万円が支出されています。皆さんが山に登られたときに見かける整備の方々は決してボランティアではありません。あくまでも仕事なのです。
臨時職員たちは、尾根の土中から墜落した日航機の破片や残がいが出ると、すぐに人目につかないような場所に隠しています。日頃から日航には大変気を遣っていることがうかがえましたので、なるほどと思いました。
過疎に悩む上野村
–本作中では極めて静かなトーンですが、上野村が過疎に悩む姿も描かれます。
清泉 高齢化が進み、国民健康保険の財源さえ保険料だけでは確保できず、村の一般財源から繰り入れています。観光資源といえばキノコや山菜類、木工製品ぐらい。墜落事故は85年、世にいうバブル景気が始まった年でもありますが、現場周辺の村々はバブル景気からも取り残され、衰退の一途を辿ってきました。ある村民は、次のような怒りを話してくれたことがあります。
「俺たちの村が過疎になった原因が、どこにあると思っているんだ。戦後、産児制限を国がやって、それで子供の数が少なくなって、今頃になって過疎対策だなんだって騒いだって手遅れだ」
現地の人々は「中央」や「東京」というもの、いわば都会に対して、そういう感覚を心の底のどこかで澱のように抱えています。そもそも墜落事故も、彼らにとっては「中央」からもたらされたものだという捉え方もあります。
—日航機墜落事故を描いた小説『クライマーズ・ハイ』(横山秀夫・文春文庫)にも、「もらい事故」という強烈な台詞があります。
清泉 未来永劫、土地に縁のなかった人々を供養していくという「役」を負ってしまった。そんな複雑な想いも、村民の間には実際に存在します。「なんで俺たちのところに」「なんで俺たちが」という複雑な心境は当然でしょう。実は慰霊の園をつくる際にも、一部の村民からは「村から出征していった戦没者の慰霊碑はほったらかしで、村には縁もゆかりもない人々の慰霊地だけを整備するのか」と異論が出ました。それほど村というのは人間の精神的な紐帯が緊密なのです。村民=内の者が最優先される土地柄でそうした感情を押し殺して、縁のなかった人々の供養を優先させ30年間にわたって慰霊を続けて尾根を守ってきた。そうした現実を知れば、その意味はいっそう重いもののように感じます。
–しかし、村民の負う「役」はボランティアではない。例えば、年に500万円の収入をもたらすという現実も存在するというわけですね。
清泉 日航の寄付金を得ている財団法人には臨時職員もいます。全員が村の人々です。収入が極めて限られた過疎の村で、財団法人の運営と発注業務は経済規模として極めて大きく、なおかつ貴重なものとなっています。慰霊の園の管理人の所得もそうですし、園の管理や周辺道路を整備する地元企業にとっても、文字通り実入りに直結する「生活の糧」なのです。
本来、対等であるべき村と企業の関係は、ともすれば日航が発注者で村は下請け業者であるとの心理的関係に陥ることもあり得る、というのが偽らざる実感です。そして30年という時間の中で、村の経済状況はさらに疲弊し、一度は倒産したとはいえ、いまだに「日本を代表するナショナルフラッグキャリア」であり続ける日航からの寄付金に頼らざるを得ず、だからこそ期待だけでなく依存さえ強まってしまう。そばで見ていますと、とても複雑な気持ちになります。
村にとって貴重な収入源という現実
–村民にとっての30年は結局のところ、「カネ目当て」の日々だったのでしょうか?
清泉 カネ目当てがすべてということは、もちろんないでしょうけれど、ああいった山間の地域ではとにかく収入を得ることが大変に難しい環境です。墜落事故当初の村長が「カネのことを一切言うな」と号令を出し、村の人々はその声には黙して従ったわけです。
上野村にはその後、東京電力のダムもできたので、固定資産税などによって周辺自治体よりも多少は余裕があります。そうした関係から、平成の町村合併でも、あえて他村と合併する道を避けていたという面もあるのです。合併によって、逆にそうした小規模ゆえの潤った状況が食われてしまうことを懸念したのです。御巣鷹の尾根を挟み、上野村と隣接し、やはり東電のダムを抱える長野県南相木村もそうです。固定資産税も年を経るごとに目減りしていきますが、それでも目先の財源が合併によって薄まってしまうことは避けたいという心理は根強いでしょう。
–確かに、人間は霞を食べて生きていくことはできませんから、収入の確保は切実な問題です。
清泉 もちろん、カネがすべて、という行動は決して前面には出ませんが、産業も人口も極めて限られた地域では「とにかくもらえるものはもらいたい」「使えるものは使わなければやっていけない」「遠慮していては食べていけない」という感覚が根強いのは、むしろ自然な感情として、致し方のないことだろうと思います。
経済的な要因も絡んだ複雑な事情を押し殺し、村民は「遺族のために」と、慰霊ルートを日々、整備しています。墜落現場を抱え、守り続け、日航と村の両者が時に思惑の異なる心の波を乗り越えて30年を迎えたところに大きな意味があるのだと思います。
–ありがとうございました。
(取材・文=編集部)
●清泉亮(せいせん・とおる)
1974年生まれ。人は時代のなかでどのように生き、どこへ向かうのか――。「ひとりの著名人ではなく、無名の人間たちこそが歴史を創る」をテーマに、「訊くのではなく聞こえる瞬間を待つ」姿勢で、市井に生きる人々と現場に密着し、時代と共に消えゆく記憶を書きとめた作品を発表している。前作に『吉原まんだら 色街の女帝が駆け抜けた戦後』(徳間書店)。
第2回:『日航と航空機墜落の村、陰で罵声浴びせ合う現実 剥き出しの村民たちの私利私欲』
第3回:『日航機墜落ドキュメンタリー番組のウソ シナリオに沿った撮影、感涙を誘うための編集』
第4回:『日航機墜落30年、想像を絶する地元民の苦悩 極寒の地で、520人の墓標を守る老夫』