NEW
河合敦「学校で教わらなかった日本史!」

龍馬は大ウソつきだった?激昂したふりして裏で入れ知恵、交渉有利に進める「名役者」ぶり

【この記事のキーワード】

, ,

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

坂本龍馬(「Wikipedia」より/E-190)
 慶応3(1867)年4月19日、坂本龍馬海援隊は伊予国大洲藩籍の「いろは丸」(45馬力、160トン)を借り、武器を満載して長崎から出航した。一航海(15日)につき500両のチャーター料金を払っており、いろは丸での航海は初めてだった。

 ところが同月23日夜、瀬戸内海の備後国鞆の浦沖を航行中のことだ。紀州藩の「明光丸」(150馬力、887トン)に追突され、いろは丸は沈没してしまう。龍馬は乗組員に明光丸に乗り移るよう指示し、乗組員は縄を伝って明光丸の甲板に上がったため、遭難者は出なかった。

 翌日、明光丸は鞆の津に着く。越後町の魚屋万蔵の屋敷で、明光丸船長の高柳楠之助と龍馬の間で示談交渉が行われた。明光丸には見張りがいなかったばかりか、操縦を誤って再度いろは丸に衝突していた。明らかに、悪いのは紀州藩側だった。しかし、相手は非を認めないばかりか「藩命があるから」といって、出立しようとしたのだ。

 龍馬は「やむを得ぬ用事があるなら、当座の資金として1万両を置いていけ」と要求したが、紀州藩側は金一封でごまかそうとした。龍馬は受け取りを拒否し、再度1万両を要求すると、紀州藩側はその返済期限を尋ねてきたという。

 龍馬が「1万両は、どうせ賠償金となるのだから、その必要はない」と突っぱねると、紀州藩側は「後日、長崎で交渉する」と言い捨て、龍馬らを港に置き去りにしたのである。

怒りをあらわにする龍馬


 こうした態度に激怒した海援隊士の一部が、明光丸に斬り込みをかけようとする。龍馬はそれを制するが、自身の怒りも頂点に達しており、交渉のために長崎に向かう際、隊士の菅野覚兵衛と高松太郎に宛てて「紀州の船(明光丸)直横より乗りかけられ、吾船(いろは丸)は沈没いたし、またこれより長崎へ帰り申し候。何れ血を見ずばなるまいと存じおり候」と記している。

「血を見なくてはすまない」とは穏やかではないが、龍馬はさらにパトロンの伊藤助太夫に「万が一の時には頼む」と身辺整理を依頼している。また、親友の三吉慎蔵には、自分にもしものことがあれば「愚妻(楢崎龍)おして尊家(三吉家)に御養い置き遣わされ候よう、万々御頼み申し上げ候」と後事を託している。

 さらに、土佐藩の後藤象二郎、薩摩藩の西郷隆盛、小松清廉、長州藩の桂小五郎など、雄藩(勢力の強い藩)の有力者たちに、紀州の非を訴える手紙を書いたのだ。龍馬が「死」をも覚悟して事に当たろうとしていることに驚いた後藤や西郷は腰を上げる。