龍馬は大ウソつきだった?激昂したふりして裏で入れ知恵、交渉有利に進める「名役者」ぶり
慶応3(1867)年4月19日、坂本龍馬ら海援隊は伊予国大洲藩籍の「いろは丸」(45馬力、160トン)を借り、武器を満載して長崎から出航した。一航海(15日)につき500両のチャーター料金を払っており、いろは丸での航海は初めてだった。
ところが同月23日夜、瀬戸内海の備後国鞆の浦沖を航行中のことだ。紀州藩の「明光丸」(150馬力、887トン)に追突され、いろは丸は沈没してしまう。龍馬は乗組員に明光丸に乗り移るよう指示し、乗組員は縄を伝って明光丸の甲板に上がったため、遭難者は出なかった。
翌日、明光丸は鞆の津に着く。越後町の魚屋万蔵の屋敷で、明光丸船長の高柳楠之助と龍馬の間で示談交渉が行われた。明光丸には見張りがいなかったばかりか、操縦を誤って再度いろは丸に衝突していた。明らかに、悪いのは紀州藩側だった。しかし、相手は非を認めないばかりか「藩命があるから」といって、出立しようとしたのだ。
龍馬は「やむを得ぬ用事があるなら、当座の資金として1万両を置いていけ」と要求したが、紀州藩側は金一封でごまかそうとした。龍馬は受け取りを拒否し、再度1万両を要求すると、紀州藩側はその返済期限を尋ねてきたという。
龍馬が「1万両は、どうせ賠償金となるのだから、その必要はない」と突っぱねると、紀州藩側は「後日、長崎で交渉する」と言い捨て、龍馬らを港に置き去りにしたのである。
怒りをあらわにする龍馬
こうした態度に激怒した海援隊士の一部が、明光丸に斬り込みをかけようとする。龍馬はそれを制するが、自身の怒りも頂点に達しており、交渉のために長崎に向かう際、隊士の菅野覚兵衛と高松太郎に宛てて「紀州の船(明光丸)直横より乗りかけられ、吾船(いろは丸)は沈没いたし、またこれより長崎へ帰り申し候。何れ血を見ずばなるまいと存じおり候」と記している。
「血を見なくてはすまない」とは穏やかではないが、龍馬はさらにパトロンの伊藤助太夫に「万が一の時には頼む」と身辺整理を依頼している。また、親友の三吉慎蔵には、自分にもしものことがあれば「愚妻(楢崎龍)おして尊家(三吉家)に御養い置き遣わされ候よう、万々御頼み申し上げ候」と後事を託している。
さらに、土佐藩の後藤象二郎、薩摩藩の西郷隆盛、小松清廉、長州藩の桂小五郎など、雄藩(勢力の強い藩)の有力者たちに、紀州の非を訴える手紙を書いたのだ。龍馬が「死」をも覚悟して事に当たろうとしていることに驚いた後藤や西郷は腰を上げる。
龍馬のしたたかな戦術
「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」
これは、龍馬がつくった歌だという。「いろは丸を沈めたその償いは、金を取るのではなく、紀州藩を潰すことで決着をつけてやる」という意味だ。なんと、龍馬はこの歌に節をつけ、交渉場所である長崎の花街・丸山の芸妓たちに歌わせ、流行させたといわれている。世論を味方につけて、交渉を有利に運ぼうとしたのだろう。
さらに龍馬は、国際紛争を解決するための聖典ともいえる「万国公法」(国際法)の書物を交渉直前に取り寄せている。この国際法を武器に、相手と理論的にやり合おうとしたのだ。
まだ、紀州藩側に国際法に詳しい者などいない。それどころか、その存在すら知らなかったかもしれない。だから国際法を持ち出した龍馬に、きっと度肝を抜かれたことだろう。
このように龍馬は、交渉で必勝を期すため、激昂したふりをして大藩や有力者を巻き込み、歌をつくって世論を味方につけた。そして、相手を萎縮させておいて、万国公法という日本人には知られていないが、世界的に権威のある法を持ち出し、紀州藩側を一気に圧服してしまおうと考えたのだ。驚くべき策士ぶりだといえる。
土佐藩が龍馬をバックアップ
5月15日、長崎において海援隊と紀州藩の談判が開始された。お互いの航海日誌を交換した後、龍馬は紀州藩側の落ち度を鋭く突き、その非を認めさせた。ところが、いざ賠償の話になると、紀州藩は幕府の長崎奉行所を利用して、龍馬たちを威圧しようとしてきたのである。
この時、手をさしのべてくれたのが後藤だった。後藤は、「この事件は、全面的に自分が解決する」と龍馬に約束する。後藤としては、いち早くこの事件を決着させたかった。そして、激動する政局において、土佐藩が主導権を握れるように、龍馬に全面協力を求めたかったのだ。後藤が特に期待したのは、龍馬が唱える大政奉還論だった。これを、土佐藩の主導で実現するためには、龍馬の力が必要だったのである。
後藤は、紀州藩側に自分が交渉を引き受ける旨を伝え、交渉再開を求めた。後藤は土佐藩の重役なので、浪人の龍馬と違って脅したり無視したりできる相手ではない。このため同月22日、紀州藩代表の茂田一次郎は長崎の聖徳寺で、後藤と話し合いをもった。
後藤は茂田に「イギリスの海軍提督が長崎に停泊中だから、この人に同様の事故例を尋ねて決着をつけよう」と主張した。それでも、賠償に関して引き延ばそうとする茂田に対し、「紀州はずいぶん冷酷なことを言うが、今後どのような結果になるか、私は責任を持てない」と、戦争も辞さない態度をちらつかせたのである。
おそらく、裏で龍馬が入れ知恵していたのだろうが、紀州藩側は驚いた。後藤は土佐藩の参政、つまり藩政の責任者であり、実際に軍隊を動かせる立場にあったからだ。
紀州藩に責任を認めさせる
紀州藩は後藤の強硬な態度に閉口し、薩摩藩の五代友厚に泣きついて仲介を頼んだ。おそらく、困った紀州藩に薩摩藩が「助けてあげますよ」と申し出たのだろう。もちろん、龍馬は薩摩藩と太いパイプを持っており、五代とも親しかった。まさに、龍馬の思う壺だったのだ。
そして、紀州藩が海援隊に8万3000両の賠償金を支払うということで、示談が成立した。これは、現在の10~20億円に相当するといわれ、いかに莫大な金額だったかがわかる。
同月28日、龍馬は下関の妻に宛てた手紙で「紀州もたまらんことになり」「やりつけ候」と、その喜びを表している。この「いろは丸事件」は、日本初の蒸気船同士の事故であり、万国公法によって解決に導かれた例としても初めてである。
龍馬の面白いところは、「いろは丸事件における交渉方式は、今後、海上事故の典例となるだろう」と考え、さっそく万国公法の刊行を計画したことである。
海援隊は、海運業のみならず辞典などの出版事業も行っていた。思い立ったら行動が早い龍馬は、示談成立後、すぐに後藤と協力して準備を進めた。しかし、残念ながら出版に至る前に龍馬は暗殺されてしまったのである。
ちなみに、龍馬はいろは丸にミニエー銃400丁など約3万5000両相当の武器と、約4万8000両相当の金塊などを積んでいたと主張したが、約10年前に行われたいろは丸沈没地点の調査では、銃や金塊は発見されなかった。つまり、ハッタリだった可能性が高いのである。
龍馬というのは、なんともしたたかな男だ。だからこそ、一介の浪人でありながら、歴史を動かすことができたのだろう。
(文=河合敦/早稲田大学教育学部講師、文教大学付属中学校・高等学校教諭)