例えば、三成の故郷である近江国の石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)では、石田家の屋敷が破壊され、敷地は埋められ、石田家代々の墓も割られて打ち捨てられている。三成の居城だった近江の佐和山城に至っては、石垣の石ひとつも満足に残っていないほど破壊され、今では城跡は見る影もない。
そして、三成は風貌についても謎が多い。
現在、三成の風貌を伝えるものとして、肖像画が1枚だけ残されている。それは、青森の津軽藩士・杉山家に伝来していたもので、江戸前期に模写されたものといわれている。
なぜ、本州最北端の地に三成の肖像画が伝えられているのだろうか。実は、この杉山家は三成の次男である石田重成を祖としている。重成は関ヶ原の合戦後、家康の追及を逃れるために青森に行き、杉山源吾を名乗って津軽家に保護されたからである。
三成の肖像画については、着用している裃(かみしも)のデザインが江戸末期のものであること、裃にある石田家の家紋が江戸末期以前には見当たらないものであるという理由から、「江戸末期の製作ではないか」との疑問が呈されている。
しかし、肖像画は写本ではあるものの、肩衣(かたぎぬ)などの形式が古様であることから、「原本は桃山時代末期ごろに製作されたのではないか」という見解もあり、現在もその評価は定まっていない。
模写である以上、なんらかの原本が存在していたはずだが、それは今も発見されておらず、問題の肖像画が三成の風貌を正確に伝えているか否かについては、謎のままだ。
肖像画には、家紋の入った裃袴を着て、小柄で目の鋭い、神経質そうな初老の武士が描かれている。これが、実際の三成だとすれば、横柄な役人タイプでとっつきにくい感じがある。
推定身長156センチの三成
しかし、実は今から100年以上前に、三成の風貌に科学的なメスを入れる試みがなされていた。
三成は関ヶ原の合戦の後、家康の命によって処刑される。その首は、京都の三条大橋にさらされ、その後は胴体と共に京都の大徳寺三玄院に葬られていた。ただ、三成は謀反人とされていたため、当初は正式な墓ではなく、石塔のようなものが建てられていたようだ。
三成の墓は、埋葬から約300年を経た明治40年に改葬されることになり、それに伴い発掘された。300年という長い沈黙を破り、墓が開けられると、ひとつの頭蓋骨が見つかった。三成の頭である。
その頭蓋骨は、当時の京都大学解剖学研究室の足立太郎博士の手で鑑定されることになった。長い年月を経ているため、頭蓋骨にはかなりの破損が見られたが、足立博士はそれを丹念につなぎ合わせて完全なかたちに仕上げた。さらにこの時、三成の頭蓋骨の石膏模型も併せてつくられたという。また、墓からは頭蓋骨だけではなく、体の骨である四肢骨も発見されたことから、三成の骨格もある程度判明した。
足立博士は、初めてその骨を見た時、女性の骨だと思ったという。三成の骨格は、それほど華奢だったのだ。そこから、三成は優男で腺病質(体格が貧弱で虚弱体質な子供)だったことが推定された。
さらに、三成の歯は極端な反っ歯で、頭のかたちは現代人にはない長頭であり、骨から推定される三成の身長は156センチほどであった。
イメージを覆す、三成の復顔
つまり、三成は現代の我々とくらべて頭が長く、反っ歯で、身長が低く、華奢な体つきだったということになる。
ただ、人類学者の鈴木尚氏によれば、当時は長頭や反っ歯はよくあることで、家康の三男で二代将軍の徳川秀忠も、三成と同じ156センチ程度の身長だったという。三成は当時としては標準的な体型であり、背もそれほど低くなかったことがわかる。
しかしながら、骨格が華奢だったため、三成は実際の体型より細く小さく貧弱に見えた可能性はあるという。
『淡海古説』という江戸時代の書物には、三成の風貌について「やせ身にして色白く、透き通るが如し、目は大きく、まつげ甚だ黒し、声は女の如し」とあり、前述の鑑定結果はこのイメージに近いものといえる。
関ヶ原の合戦を企て、天下人・家康を相手に互角の戦いを繰り広げた三成は、実は華奢で小柄な男性だったのだ。
残念なことに、この時つくられた三成の頭蓋骨の石膏模型は、第二次世界大戦中の混乱で失われてしまったが、細かな寸法などを記した資料は、戦火を免れて今日まで残っていた。
三成研究家の石田多加幸氏は、この調査資料を元科学警察研究所主任技官長の安周一氏のもとに持ち込み、三成の顔の復元を依頼した。骨だけが残された遺体から顔を復元し、警察の捜査資料にする復顔技術を応用したのである。
この時復顔された三成の顔は、昭和51年に「甦った石田三成の顔」として発表された。
それを見ると、これまで伝えられてきた肖像画とは異なり、意志の強そうな、それでいて柔和な優しい顔が写っている。従来のイメージとされてきた冷たく官僚的な三成ではなく、温かな心を持った教養人を彷彿とさせる。
三成は、同じ豊臣秀吉の子飼いの重臣で武功派といわれた福島正則や加藤清正に嫌われていたというが、武士らしからぬ繊細で華奢な彼の体型も、その理由のひとつだったのかもしれない。
(文=三池純正/歴史研究家)