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某大手銀行、巨額損失隠蔽で米国追放処分…実質責任者だった元会長が死去

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当時の大和銀行 東京本部ビル(「Wikipedia」より)

 大和銀行(現りそな銀行)の元頭取・会長で、旧関西国際空港会社の会長も務めた安部川澄夫(あべがわ・すみお)氏が8月30日午前5時51分、肺炎のため兵庫県西宮市内で死去した。94歳だった。喪主は長男の威氏。

 1947年、東京大学を卒業し、大和銀行前身の野村銀行に入った。常務などを経て84年に頭取に就任。91年に会長に就き、95年に相談役に退いた。

 バブルの狂乱の最中に、銀行のトップになった。三光汽船の倒産の直前に頭取となったが、米ニューヨーク支店での巨額損失事件に関して責任を取り会長を退いた。

 85年8月13日、運航船舶の荷動き量で世界一を誇った三光汽船が会社更生法を申請して倒産した。負債総額は5200億円。海外船主や商社などに契約が残っていた用船料の債務などを加えると1兆円を超え、当時、わが国最大の企業倒産だった。

 三光汽船のメインバンクが大和銀行だった。安部川氏は84年6月に頭取に就任し、三光汽船の経営危機と向き合うことになる。

 三光汽船は34年、三光海運という530トンの1隻を運航するだけの会社からスタート。そんなちっぽけな会社が、日本でタンカーの保有シェア28%、世界の同4%を占める世界一のタンカー会社に昇りつめた。株式の時価総額は一時、新日本製鐵(現新日鐵住金)を抜き日本一になった。

 三光汽船は、政治家の河本敏夫氏と経済学博士・岡庭博氏がコンビを組み、強引ともいえる経営の舵取りをしたことによって世界一のタンカー会社の栄光を手にした。しかし、リスクに挑戦し続ける姿勢は、三光汽船を“沈没”させる原因ともなった。

 三光汽船の“投機的商法”として名高いのが船舶の大量発注だ。海運市況には周期性がある。海運市況が底の時に安値で船舶を大量発注し、海運市況が回復したときに欧米の業者へ貸し出す一方、転売して大きな利益を得る。三光汽船は中型タンカー73隻を大量発注というバクチが当たって、世界一のタンカー会社になった。

 80年代の海運不況のとき、河本・岡庭の両首脳は125隻ものバラ積み貨物船を大量発注した。梱包されていない穀物、鉱石、セメントなどを輸送する船だ。だが、ふたりが最も得意としてきたイチがバチかの“大バクチ商法”が、この時は完全に外れた。これが経営破綻の引き金を引いた。

 三光汽船倒産の最大のミステリーは、メインバンクである大和銀行がバラ積み貨物船の大量発注に、なぜゴーサインを出したのかということだ。大和銀行は“慎重居士”の異名をとっていたほどだ。「三光汽船のバクチ経営に付き合いたくない」と多くの銀行が手を引くなかで、大和銀行は突き進んだ。

 その理由は、オーナーの河本氏がメインバンクの首脳陣を説得したためだ。河本氏は大臣になり経営に直接タッチしていなかったとはいえ、自民党の河本派を率いる派閥の領袖だ。大和銀行は、河本氏の顔色をうかがい、いわば“忖度”してバラ積み貨物船の大量建造にゴーサインを出したのではないかとの見方もある。

 84年に頭取に就任した安倍川氏は、その尻拭いに追われた。三光汽船の倒産によって、大和銀行は債務保証分を含めて940億円が焦げ付いた。

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