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江川紹子の「事件ウオッチ」第122回

【官邸vs東京新聞・望月記者】不毛なバトルの陰で危惧される「報道の自由」の後退

文=江川紹子/ジャーナリスト
【官邸vs東京新聞・望月記者】不毛なバトルの陰で危惧される「報道の自由」の後退の画像1記者会見で答える菅義偉官房長官(画像は「首相官邸HP」より)

 菅義偉官房長官の記者会見での記者の質問を巡って官邸報道室から申し入れがくり返されている件で、東京新聞が紙面で反論の特集を行った。一方、官邸側も菅氏がこれに「違和感」を表明。本件では双方が悪手を繰り出し、事態がこじれきっている。どちらにも共感できない人たちがうんざりしている間に、報道の自由にかかわる悪しき慣習ができつつあるのも気がかりだ。

官邸報道室vs望月衣塑子・東京新聞記者

 官邸の批判の対象となっている同紙社会部の望月衣塑子記者は、2017年6月から官房長官会見に出席するようになった。自身の意見を披瀝しながら菅氏に粘り強く論戦を挑んでいく質問スタイルが、話題を呼んだ。

 政治部主導の記者会見に新風を巻き込むとして好意的な受け止めがある一方、強い反感を抱く人たちもいた。産経新聞が「官房長官の記者会見が荒れている! 東京新聞社会部の記者がくり出す野党議員のような質問で」(2017年7月18日電子版)と望月批判をしたのは、後者の意見を代弁したものといえよう。

 それでも当初は、それなりの時間を割いて答えていた菅官房長官だったが、いつの間にか、彼女に対する実にそっけない対応が目立つようになった。さらに、彼女が口を開くやいなや、司会を務める上村秀紀・官邸報道室長が「質問は簡潔にお願いします」などと口を挟み、質問の前提事実を述べる間に「質問に入って下さい」「質問して下さい」と頻繁に催促するなど、質問妨害といえる状況が続いている。

 さらに官邸報道室は、昨年12月28日、望月記者の2日前の沖縄・辺野古に関する質問を「事実誤認」「度重なる問題行為」と断定し、「官房長官記者会見の意義が損なわれることを懸念」「このような問題意識の共有をお願い申し上げる」とする文書を、内閣記者会に張り出した。

 東京新聞に対しても、官邸側からこれまでに9回にわたる申し入れがなされたという。こうした状況に対し、東京新聞は2月19日付の社説で「権力側が、自らに都合の悪い質問をする記者を排除しようとするのなら、断じて看過することはできない」と官邸サイドを批判。さらに20日付の紙面でまるまる1面を使って、昨今の官邸側からの同紙記者の質問制限と申し入れについての「検証と見解」を行った。

 彼女に対する毀誉褒貶には、安倍政権に対する評価が反映されており、かなり感情的だ。彼女をボロカスにこき下ろし、見下したり罵倒したりするのは、たいてい安倍政権に強いシンパシーを抱く人たち。一方、望月記者をジャーナリストの鑑のように見て、今の危機的状況を救う希望の星であるがごとくに持ち上げるのは、ほとんど安倍政権を敵視する人々だ。今回も、双方の立場から、問題に対する意見が盛んに出されている。

 ここでは、どちらにも与せず、ただし報道の自由を大切に考える立場から、問題を考えてみたい。

異様な官邸広報室の対応、不可解な望月記者の取材手法

 政権シンパの人々からの望月記者についての批判を大別すると、(1)発言が長い、(2)質問の中に事実誤認がある、(3)質問ではなく自分の意見を述べて議論をしている、の3点にまとめることができよう。

 この批判は、果たしてどの程度適切なのだろうか。

 (1)の時間的長さは、当初の同記者の質問に関する批判としては、実にもっともなものだったと思う。長々と前提事実や自分の意見を述べ、何を聞きたいのかわかりにくいこともあった。

 おそらく本人も、この点は気にしていて、質問前に準備をするようになったのだろう。最近は、当初に比べて発言内容はずっとコンパクトになり時間も短い。論旨もわかりやすい。今ではもう、この批判は当たらないのではないか。

 (2)のように、「事実誤認」がある場合、本来は官房長官がそれを指摘したり、正せばすむ話だ。そうならないのは、彼女の場合、質問自体に政府批判の意図がこめられているからだろう。

 彼女が質問の前提事実を間違えて政府批判の質問をし、後から事実誤認を認めたり謝罪したことは、実際、何度かあった。私には、彼女が政府批判に前のめりになるあまり、確認していない事実までうっかり口走ったように見えた。

 ただ、官邸側が問題視しているなかには、明らかな「事実誤認」というより、「見解の相違」とも言うべき事柄もある。たとえば、入管法改正案について、望月記者が「強行に採決が行われました」と述べたのに対し、官邸側は「採決には野党議員も出席していて、『強行に採決』は事実に反する」と苦情を申し入れた。

 この法案は、衆議院では立憲民主、国民民主、共産など野党8会派が反対するなか、採決を強行。参院法務委員会でも、主要野党の反対を押し切って自民党、公明党、日本維新の会などの賛成多数で可決。衆参の法務委員会での審議時間は合わせて38時間しかなく、多くのメディアが「強行採決」と報じている。

 政府としては「強行でない」と言い張るにしても、望月記者の質問だけを敵視し、わざわざ新聞社に申し入れをするとは、異常としか言いようがない。

   (3)については、批判されてもそのスタイルは固守しているところを見ると、望月記者自身が、主張をぶつけるのが権力者への質問のあるべき姿と考えているのかもしれない。今年に入っても、自分の意見を述べて政府の見解を問う形の質問は続けている。

 たとえば、1月18日午後の記者会見で、望月記者は辺野古の基地建設をめぐる沖縄の県民投票を取り上げた。自民党の宮崎政久議員が一部自治体に不参加の手法を指南したと報じられた問題について、糾弾口調でこう尋ねた。

「宮崎議員の行動は、県民投票の権利を踏みにじる暴挙ですけれども、今回のこの暴挙は、民意に反し、辺野古基地建設を強行に進めている長官をはじめ、政府、官邸の直接的間接的指示はなかったのか、お答え下さい」

 この質問についても、官邸側から東京新聞に、「主観に基づく、客観性・中立性を欠く個人的見解。円滑な会見の実施を著しく阻害する」という苦情の申し入れがあったという。

 時に挑発的な物言いで反応を見る、相手と異なる意見をぶつけて反論を聞く、というのは、取材の手法のひとつだ。それに、ここまでしつこく反応して苦情を申し入れる官邸広報室の対応は異様だ。もっとも彼女の場合、こうした挑発的質問は「時に」ではなく、いかにも頻繁。それを、「決め打ち」と言いたくなる官房長官の気持ちもわからないではなく、このような質問スタイルに拘泥する記者の意図も理解しがたい。

 普通の取材者であれば、できるだけ相手に話をさせるような質問を工夫するだろう。それを、相手へのすりよりとか妥協などと見る人もいるようだが、話を聞いてナンボというのが記者稼業。情報をもらうために、批判すべき時に批判ができなくなったり、お追従記事ばかり書くようになったら問題だが、記者会見で答えを引き出しやすいように質問を工夫するのは、そういう批判には当たらない。

 たとえば、先の県民投票についての宮崎議員の行動について、同じ質問をするにしても、多くの記者は、こう聞くのではないか。

「宮崎議員に対し、長官をはじめ政府、官邸の直接的間接的指示や示唆、あるいは事後に報告を受ける等の関わりはなかったのか」

「権利を踏みにじる暴挙」「民意に反し」「強行に」などといった非難を含んだ表現を使わなくても、質問はできる。そのほうが答えを引き出せるなら、多くの記者はそういう方法を選ぶ。そして「暴挙」や「民意に反し」た政府の対応を批判したければ、識者の意見や沖縄の人々の声を取材したり、社説や解説の担当者にゆだねたりする。

 望月記者の応援団のなかには、官房長官に批判の言葉をぶつけて糾弾し、とっちめるのを期待している向きもあるようだが、記者会見は本来、そういう場ではない。基本的には事実や見解を引き出すための機会だ。

 ところが、望月記者は官房長官会見で何かを引き出すことができなくなっている。記者会見の場を好悪の感情で対応する菅官房長官にもがっかりだが、望月記者も自分がなんのために記者会見に出席しているのか、自分の役割はなんなのか、よく考えたほうがいいのではないか。

記者は「国民の代表」なのか

 もっとも、それは彼女や東京新聞の課題で、私のような外野がとやかく言っても仕方がない。所詮は、一記者の取材技量の問題だ。

 本来はそういうレベルの話題なのに、国会で野党議員が取り上げ、「取材の自由への干渉」と批判するような大問題になってしまったのは、官邸報道室が質問の妨害やら、同社や記者クラブに対する度重なる申し入れやら、報道の自由に不安を感じさせる悪手を次々にくり返し、問題をクローズアップさせたためだ。

 会見での望月記者に対する官房長官のそっけない対応や報道室長による質問妨害は、映像がSNSなどで拡散されている。その様子を見て、一女性記者に対する官邸総掛かりの「いじめ」と受け止めている人は少なくない。

 政権側にとっても、これまでの望月いびりの官邸報道室の戦略は、菅官房長官のイメージダウンをもたらし、人々の報道の自由に対する危機感を煽るなどの弊害ばかりで、何ひとつ得るものはなかったのではないか。政府は、広報の責任者を入れ替え、対応を根本的に改めるべきだと思う。

 一方の東京新聞も、官邸の苦情に対し、「記者は国民の代表」と言い返すなどの悪手をいくつか打っている。

 2月20日付「検証と見解」によれば、昨年6月、森友問題での財務省と近畿財務局との協議に関して、望月記者が「メモがあるかどうかの調査をしていただきたい」と求めたところ、長谷川栄一・内閣広報官から文書でこんな問いがあったという。

「記者会見は官房長官に要請できる場と考えるか」

 愚問としか言いようがない。取材の一貫として、相手方に資料の提供を要望することはありうるし、その前提で、記者会見の場で資料の存在確認や調査を求めることはあるに決まっているではないか。東京新聞は、この時点でこれを報じ、報道についての官邸の無理解を世に知らせるべきだった。

 ところが東京新聞は、その選択をせず、長谷川氏の問いには、こう答えたという。

「記者は国民の代表として質問に臨んでいる。メモの存否は多くの国民の関心事であり、特に問題ないと考える」

 果たして、記者は「国民の代表」なのだろうか。これに対して、官邸側は「国民の代表とは選挙で選ばれた国会議員」と反論した。一方、メディア法の専門家のなかには「広い意味で、知る権利に応える国民の代表である」と述べている人もいる。

 私は、記者が「国民の代表」という表現には違和感を覚える。私自身は、新聞記者時代も含め、自分は「国民の代表」ではないと思う。

   「広辞苑」第7版によれば、「代表」には次の3つの意味がある。

・法人・団体または一個人に代わってその意思を表示すること。また、その人。「親族を――して挨拶する」
・全体を示しうるような、その中の1つのものまたは一部分。「日本文学を――する作品」
・その集団の中で、ある能力や技術の高さによって選ばれた人・団体。「日本――チーム」

 1人のジャーナリストが国民に成り代わって意思表示をしたり、国民全体のモノの見方を表明することなどできない。国民から選抜された存在でもない。なにより、取材活動というのは、国民を代表してやるものではなく、基本的には記者本人や所属する媒体の「知りたい」「伝えたい」という関心に突き動かされて行うものだと思う。

 ただし、自由な取材や報道を支えているのは、国民の「知る権利」にほかならない。取材先で取材しやすいように便宜が図られることがあるのも、「知る権利」を持つ国民の代わりに、現場に行き、見たり聞いたり写真を撮ったりして、それを伝えるからだ。また、困難な状況にある人たちの代わりに、その声や姿を預かって多くの人々に届ける仕事もある。こうした取材の対象も情報の受け手も、日本の国民とは限らない。

 そう考えると、ジャーナリストの活動は、「国民の代表」ではなく、「人々の代理」として行っていると言うのがふさわしいのではないか。新聞記者が記者会見に出て質問するのも、人々の代わりにさまざまな事実や見解を引き出し、それを伝えることで、人々が考える材料を提供する、そういう行為だと思う。

 もっとも、「人々」と言っても、世の中にはいろんな考えや好みの人がいる。なので、その代わりに取材を行うジャーナリストにもいろんな考えや好みの人がいることが望ましく、メディアは多様であった方がよい。いろんな人たちの代わりに、さまざまな記者が時間の許す限りそれぞれの観点から質問をする。答えるほうも、やはり時間の許す限り、真摯に対応する。それができてこその報道の自由ではないか。

 ところが、「官邸vs.望月記者・東京新聞」という不毛なバトルが繰り広げられている間に、さして長くもない記者の質問にも、官邸報道室が平然と催促の言葉を差し挟んで質問しにくくするようになっている。これは、報道の自由を後退させる動きと言えよう。

 東京新聞が「検証と見解」を掲載した2月20日の記者会見で、この問題を取り上げて質問した朝日新聞の女性記者も、同じような目に遭っている。最初にこの問題を質問した男性記者は、そういう対応をされていない。女性記者に対して、より妨害的な行為がなされやすいのではないか、という疑念も芽生える。

 そもそも、内閣記者会主催の記者会見であれば、司会を記者クラブの幹事社がやらず、官邸報道室長が司会を行っているというのがヘンではないか。そればかりか、同室長の質問妨害を許しておくとは、どういうことだろう。

 記者クラブは、1890(明治23)年に始まった国会(帝国議会)で、記者たちが傍聴取材を要求したのが起源だ。取材機会の充実を求めていくのがあるべき姿で、それを制限する当局の動きには、敏感に反応し、押し返さなければならない。言うべき時に言わなければ、結果として報道の自由を抑制する方向に協力するのと一緒である。ゆめゆめそんなことにならないよう、ここだけは注文をつけておきたい。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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