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近代皇室の恋愛と結婚を考える〜明治天皇から悠仁さままで〜 第3回

「男系男子」120年の呪縛…大正天皇婚約破棄騒動と、眞子さん皇室離脱劇をつなぐもの

文=小田部雄次/歴史学者
「男系男子」120年の呪縛…大正天皇婚約破棄騒動と、眞子さま皇室離脱劇をつなぐものの画像1
第122代・明治天皇。15人の子に恵まれたが皇后との間には子はなく、嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)も側室が産んだ。写真は1873(明治6)年に撮影されたもの。(画像はWikipediaより)

 明治天皇には公式に伝えられるだけで、5人の側室との間に15人の子どもがいた。子どものうち男子が5人、女子が10人だった。1889(明治22)年2月11日に公布された皇室典範(旧)の第一条「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す」の条文により、女子の皇位継承者は認められず、5人の男子にのみ皇位継承の資格があった。しかし、5人の男子のうち4人は早世し、明治天皇はその生涯で15人の子をなしながらも、その皇位を継承できる子はただ1人しかいなかった。

 ちなみに5人の側室は、葉室光子、橋本夏子、柳原愛子(やなぎわらなるこ)、千種任子(ちぐさことこ)、園祥子(そのさちこ)であった。これらの側室たちはすべて、旧公家の子女で、権典侍(園ははじめ権掌侍で、のち権典侍になる)という女官のなかでも最上層の高等女官たちであった。高等女官には尚侍、典侍、掌侍の階層があり、尚侍は欠員が多かった。また「権」には次位の意味があり、権典侍は典侍に次ぐ位置にあった。これら高等女官の下には、命婦(みょうぶ)、女嬬、茶汲、雑仕(ぞうし)など下働きの女官たちも数多くいた。しかし、命婦以下の女官が天皇の寝所に侍(はべ)ることはなかった。側室とはいえ、天皇の子をなすには、相応の身分階層の子女であることが求められていたのである。

皇后美子との間には子はなさなかった明治天皇…15人の子はみな、公家出身の側室が産んだ

 これらの側室たちがもうけた明治天皇の5人の男子は、長男が葉室との間の稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)。次男と三男が柳原との間の建宮敬仁(たけのみやゆきひと)親王と明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王(のち大正天皇)。四男と五男が園との間の昭宮猷仁(あきのみやみちひと)親王と満宮輝仁(みつのみやてるひと)親王であった。そして、明宮以外はみな早世した。

 女子は、長女が橋本との間の稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)。次女が柳原との間の梅宮薫子(うめのみやしげこ)内親王。三女と四女が千種との間の滋宮韶子(しげのみやあきこ)内親王と増宮章子(ますのみやふみこ)内親王。第五女以下第十女までが園との間の久宮静子(ひさのみやしずこ)内親王、常宮昌子(つねのみやまさこ)内親王、周宮房子(かねのみやふさこ)内親王、富美宮允子(ふみのみやのぶこ)内親王、泰宮聡子(やすのみやとしこ)内親王、貞宮多喜子(さだのみやたきこ)内親王であった。なお、常宮、周宮、富美宮、泰宮以外の6人の女子はみな早世した。また成人した4人の女子は、みな皇族に嫁いだ。

 つまり明治天皇の15人の子どものうち成人したのは、男子は明宮、女子は常宮、周宮、富美宮、泰宮の4名であり、明宮はのちに大正天皇、常宮は竹田宮恒久王妃、周宮は北白川宮成久王妃、富美宮は朝香宮鳩彦王妃、泰宮は東久邇宮稔彦王妃となったのである。

 なお、今日では考えられないことだが、皇后である美子(はるこ・昭憲皇太后)の子はひとりもいなかった。他方、先にも述べた通り明治天皇の15人の子どもたちの生母はみな、権典侍や権掌侍などの高等女官(側室)であった。また、子はなさなかったが、権典侍として明治天皇の寝所に侍った女官としては、ほかに小倉文子、姉小路(あねがこうじ)良子、西洞院成子(にしのとういんしげこ)、植松務子(としこ)らが知られる。これらの女官との間にも子ができていれば、明治天皇の子の数はさらに多かったろうし、あるいは男子も生まれたかもしれない。しかし、これだけの側室がおりながらも、天皇の直系の男子で成人したのは、明宮嘉仁1人だけだった。

側室の身分は皇后よりも低くなくてはならぬ、しかし低すぎてもだめである

 ついでながら、明治天皇の寝所に侍った権典侍たちは、全員、公家(堂上華族)で、伯爵家あるいは子爵の子女に限定されていた。皇后となる五摂家で公爵家よりは一段低いが、男爵や爵位のない一般平民階級よりは上位の家柄だった。側室は皇后より身分が高くては(あるいは同等でも)なれなかったし、低すぎてもなれなかった。側室にも身分上の制約があったのだ。

 余談だが、歴代の皇室にはいわゆる「ご落胤伝説」があり、明治天皇の場合も、民間で育った子がいるという説がある。みずから明治天皇の「ご落胤」を名乗る人物も現れ話題を集めたこともある。明治天皇の子でありながら、相手がしかるべき身分にない子女であったため、民間に預けられてしまったことはあり得なくはない。

 他方、側室であった千種任子の子は男であったが、宮中内で柳原との勢力争いを避けるため早世したことにして民間に預けたという説も聞いた。こうした「ご落胤」の真偽については諸説あるが、「閨(ねや)」のことは子をなした当人にしかわからないし、その事実の確認は難しい。

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明治天皇の正室・美子(昭憲皇太后)。それまでの皇后は公の場に出ることも公務もなかったが、明治政府の意向で、欧州の皇后にならって医療や教育の奨励活動を手掛けるようになった。写真は1889年(明治22年)に撮影されたもの。(画像はWikipediaより)
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明治天皇の側室・柳原愛子の子として生まれた大正天皇。生来病弱で何度か大病に罹患しており、47歳という短い生涯であった。写真は1912(大正元)年に撮影されたもの。(画像はWikipediaより)

25年近く子をもうける努力を続けた明治天皇…それでも綱渡りであった「男系男子継承」

 さて、明宮嘉仁は明治天皇の唯一の成人した男子であった。天皇直系の「男系男子」の確保のためには、明宮に続く男子出生が望まれていた。さらに明宮は生まれつき病弱であり、その将来が懸念されてもいた。こうした理由もあって、明宮の誕生した1879(明治12)年8月31日以後も、明治天皇は多くの側室との間に多くの子をもうけた。その数は10人になり、そのうち2人が男子であったが、明宮の弟はついに成人することはなかった。先にもふれたように、みな早世してしまった。残りの女子も多くが早世した。

 明治天皇の最後の女子である貞宮は1897(明治30)年9月24日生まれであり、1852(嘉永5)年9月22日(陽暦11月3日)生まれの明治天皇が数え46歳の時の子であった。初めての子である稚瑞照彦尊が1873(明治6)年9月18日生まれで、明治天皇22歳の時であるから、25年近く子をもうける努力を続けたのである。およそ25年で15人の子をもうけたということは、およそ1年半に1人の割合である。天皇とはいえ、当時でも多産なほうだろう。

 明治天皇の父である孝明天皇は、公式には男子2人、女子4人で、そのうち次男の祐宮睦仁(さちのみやむつひと/明治天皇)以外はみな早世しており、明治天皇自身も先代の孝明天皇の唯一の男子だったのである。そして明治天皇もまた、側室の子であった。

 近代天皇家は、その成立初期の時期から皇室典範(旧)の第一条「男系の男子之を継承す」の条文を満たす天皇家直系の男子の確保において、側室によって支えられていたといえる。しかも多くの側室がいながら、危機的な綱渡りの状態にあったわけだ。

山県有朋の提案した「御側女官」を拒否した明治天皇の思い

 そうした綱渡り状況を危ぶんだ明治天皇の側近たちは、高等女官以外の家柄を問わない側室を置こうとした。「御側(おそば)女官」の採用を天皇に願ったのである。先にも述べたが、いわゆる側室は、権典侍、権掌侍など身分や御所での職務が定まっていた高等女官たちで、たまたま天皇の寵愛を受け、寝所に侍り子をなした者たちであった。柳原愛子もそうした高等女官のひとりで、のちに天皇となる明宮嘉仁を産んだことにより「ご生母様」、「二位の局(つぼね)」などと称され、特別扱いを受けた。しかし、皇后(一条美子・昭憲皇太后)には子がなく、多くの側室が産んだ子も男子が少ないため、男系男子の確保のために、天皇の寝所に侍り子をなすことを主な目的とした女官を配置しようとしたのである。

 つまり、皇位を継承する天皇直系の男子が少ないことを懸念した元勲の山県有朋、松方正義らは、侍従長の徳大寺実則と相談し、権典侍や権掌侍のような御所での職務をもった女官とは別の、天皇に子をもうけさせるためだけの女官である「御側女官」の採用を、天皇に願ったわけである。1896(明治29)年4月28日の『明治天皇紀』には、「天皇、皇男子に乏し、国民竊(ひそか)に之を嘆き、是れ皇室の繁栄を増進し、国家興隆の基礎を致す所以(ゆえん)にあらざる」とある。皇男子が少ないのを国民は嘆いているので、皇室の繁栄と国家興隆の基礎のため、「御側女官」を採用して、皇男子を産んでもらいたいというのが大義名分であった。

 山県らは生まれた皇男子を、ほかの皇族男子同様に将来は陸海軍に従事させ、その統率の任にあてる構想も持っており、「是れ敢(あ)へて逸楽のために召させたまふにあらず、誠を国家に致し、皇祖皇宗に対する大孝を全うせらるヽの所以(ゆえん)に外ならず」と、天皇に訴えた。しかし、天皇はこれに同意せず、山県らの構想は頓挫した。

5人の高等女官との間に15人の子をなしながら、たった1人の男子しか育たなかった明治天皇

 当時、天皇が寵愛していたのは権典侍の園祥子であった。1886(明治19)年2月10日生まれの久宮以後は、すべて園の子であり、園は1897(明治30)年までに明治天皇の子を8人もうけていた。山県が「御側女官」の提案をした頃、園は泰宮聡子内親王(のちの東久邇宮稔彦王妃)の出産間際であり、その後も貞宮多喜子内親王(夭折)をもうけていたのである。すでに明治天皇と園との間に2人の男子が生まれていたが、ともに夭折しており、その後も明治天皇は、園の男子出産を望んでいたことは推測し得る。しかし、それは実現しなかった。明治天皇の最後の子である貞宮が亡くなったのは1899(明治32)年1月11日で、明治天皇は48歳であった。1867(慶応3)年生まれの園は33歳であった。園はまだ子が産めない齢ではなかったかもしれないが、その後も産むとすれば、当時としては高齢出産になる年齢ともいえる。

 明治天皇には、子をなさなくとも寝所に侍った女官はほかにも複数いたし、またすでに5人の高等女官との間に10人以上の子をなしながら、たった1人の男子しか育っていないことを考えれば、「御側女官」を置いたとしても、それ以上の努力は徒労になる可能性もあった。しかも、その「御側女官」の子が男子であった場合、その女官を核として新たな政治勢力が生まれる危険もあったろう。明治天皇が「御側女官」を拒否した理由は種々考えられようが、この頃には、明宮嘉仁の結婚とその男子出産に、天皇直系の「男系男子」継承の期待が移っていったようだ。

のちの大正天皇、皇太子嘉仁と伏見宮の禎子女王との婚約は、なぜ破棄されたか?

 さて、すでに皇太子となっていた明宮の結婚相手さがしは、1891(明治24)年頃から始められていた。妃候補となる皇族や公爵の子女が、明宮の妹の常宮や周宮の遊び相手として赤坂離宮などに招かれ、両宮の養育主任であった佐佐木高行らによって選考された。

 その結果、伏見宮貞愛親王の長女である禎子(さちこ)女王が有力候補となり、禎子を皇太子妃に内定した。明治天皇も皇太子妃には皇族の女王が望ましいと考えていたし、禎子をいたく気に入っていた。この時、禎子は数え9歳、明宮は6歳上の15歳であった。

 ところが、明宮が20歳となる5年後の1898(明治31)年になって、天皇の侍医である橋本綱常や池田謙斎が、禎子に「肺病」の疑いがあると進言し、岡玄卿侍医局長もこれに従い、禎子との婚約内定の取り消しを提言した。禎子を気に入っていた明治天皇はこの判断に不満があったが、侍医や側近の意見に押されて譲歩した。いわゆる「皇太子嘉仁婚約解消事件」である。

 この顛末は浅見雅男『皇太子婚約解消事件』に詳しいが、たんに男系男子の確保のみならず、当時の皇族家や五摂家など上層公家ら、さまざまな政治勢力が絡み合った結果の、政治的策謀めいた面もなくはなかった。そもそも、男系男子の確保が目的であれば、皇后の「肺病の疑い」などはあまり重視されるほどではない。数年経てば快復するかもしれないし、実際に禎子は山内侯爵家に嫁ぎ、太平洋戦争中は大日本婦人会会長を務め、戦後は全日本薙刀連盟(現・全日本なぎなた連盟)の初代会長となる。薙刀は直心影(じきしんかげ)流の達人だったという。1966(昭和41)年に満80歳で亡くなる。1983(昭和58)年には高知県スポーツの殿堂に入っている。

歴史学者が語る“眞子さん騒動”と皇族の国際結婚…ドイツ人女性と婚約した北白川宮能久の画像3
2022(令和4)年10月現在の状況をもとに作成したものです。
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大正天皇の正室・九条節子(貞明皇后)。名家生まれでありながら「九条の黒姫様」と呼ばれるほど健康的でたくましく、このことが病弱な嘉仁親王(大正天皇)の妃となる大きな決め手になったようだ。写真は1912年(大正元年)に撮影されたもの。(画像はWikipediaより)

側室が許されていた当時にあって、「男子を生める皇太子妃」の選定に側近たちがなぜか奔走

 ただ、確かに禎子は生涯子に恵まれず、禎子に代わり皇太子妃となった九条節子(さだこ)が男子を4人産んで、男系の皇位を盤石にした。このことから、禎子との婚約破棄は結果として「正解」であったとする説が根強い。しかし冷静に考えれば、節子がいかに身体が丈夫とはいえ、そのことが結婚前に男子出産を保証する絶対的な根拠になるとはいいがたい。当時でも、「いくら体が丈夫だからといっても子供がたくさん産めるとはかぎらない。現に緋桜さんは体が丈夫でも子供は産まないではないか」という明治天皇の生母である中山慶子(よしこ)の言葉があったことを、先の浅見氏も紹介している。「緋桜さん」とは、権典侍の小倉文子のことで、園祥子とならんで明治天皇の寵愛が厚かったが、子を産めなかった女官のひとりとして知られる。

 そもそも明治天皇の皇后である美子(昭憲皇太后)は、明治天皇との仲はよかったが、身体が華奢であり、体力もあまりなかった。そのため明治天皇の夜伽相手としてはあまり期待されず、皇后が認可した側室を侍らせていたのである。そうした皇室にあって、男子をもうけるためであれば、明宮にも側室をおけばいいのであるが、そうした動きはなかった。まだ側室が許されていた当時、男子を産める皇太子妃の選定に側近たちが奔走する背景には、男系男子出産を理由にした、もっと別の複雑な政治的な理由があったのではないかとも推測されるのである。

当初目立たなかった九条節子がなぜか皇太子嘉仁の“お后候補”として残った、政治的ストーリー

 たとえば、浅見氏は禎子の代わりに節子が皇太子妃候補に浮上していく動きを丁寧に追っている。それによれば、当初は節子の名はなく、徳川家、久邇宮家、北白川宮家、一条家、鷹司家、毛利家などの娘たちが候補に挙がるが、容姿や性格や健康などを理由に、次々と消去法で消えていった。もちろん、皇族ではなく、かつ妾腹の子であった節子への異論はあったが、結局、『原敬日記』などによれば、伏見宮家の禎子をはずしたので皇族家ではなく摂家から選ぶことになったという。

 そして、摂家のうちでも九条家は英照皇太后(孝明天皇の后)の実家でもあり、その九条家の子女である節子は、華族女学校学監の下田歌子が幼少より育て、「別段優れたる御長所なきも、又何等の御欠点も之なきに付然るべきか」と伊藤博文に話し、陸軍軍医総監の橋本綱常の診察を受けさせ、「健康申分なし」として決定したいきさつがあったという。当初目立たなかった節子が、最後に有力候補として生き残ったあたりは、むしろ計算ずくの消去法の印象が漂う。政治とはそういうものだと思わせる典型的な流れでもある。

 こうして「健康申分なし」というキーワードにより、「男系男子の出産を願って、『肺病の疑い』のある禎子との婚約を破棄し、節子に決まった」という物語がつくられたのである。

 その後、節子は結婚直後の皇太子妃時代に迪宮裕仁(みちのみやひろひと・昭和天皇)、淳宮雍仁(あつのみややすひと・秩父宮)、光宮宣仁(てるのみやのぶひと・高松宮)の3皇子を生み、さらに皇后となってからも澄宮崇仁(すみのみやたかひと・三笠宮)をもうけ、4皇子の生母となった。しかも、節子の時代にも権典侍などの高等女官がいてその職務を担ったが、側室としての機能はもたず、天皇家に実質的な一夫一婦制度をもたらしたと評価されることになる。ここに、男系男子のための婚約破棄騒動のストーリーが完成したのである。

皇太子時代の昭和天皇に男子が生まれなかったことにより誘発された、“政治的策謀”

 しかし、それは目的と結果が一致したように見えるだけで、当初から節子に複数の男子が生まれ、側室も不要になるという予測にどこまでの確信があって、禎子との婚約を破棄して節子に代えたのかの疑問は残る。皇太子妃や皇后が必ずしも子をなさなくても許される時代にあっては、男系男子出産のために皇太子妃を代えたという説に、いささか腑に落ちないものを感じる。男系男子出産を理由に、禎子の病気に難癖をつけ、英照皇太后の実家の九条家の娘である節子を推す勢力の介入を許した政治的側面も見逃せないのだ。万が一、節子に子が生まれなくても、側室を置くことで解消しようという目論見もあり得たろう。

 ただ、明宮嘉仁が病弱のため、その后妃は健康な女子をという願いも確かにあり得た。しかし、それは男系男子出産とはまた別の問題といえる。そもそもこの婚約解消の理由は、禎子が明宮嘉仁と同病であり、健康上の問題があるとのみ伝えられるだけで、男系男子出産のためとは、誰も言葉にしていない。言外に匂わせられているだけで、後世の人々が勝手に解釈している面もある。

 とはいえ、節子が4人の男子を産んだことで、男系男子の皇位継承問題は安定した。その後、大正天皇の長男で皇太子となる裕仁が欧州で近代西洋文明に触れ、女官の側室的機能を廃止するようになる。ところが、側室を否定した裕仁の皇太子妃(のち皇后)となる良子(ながこ・香淳皇后)との間には女子ばかりが続いた。このため、男子が生まれないことからくる、さまざまな政治的策謀を誘発した。養子制度や側室の復活などである。

 また、昭和天皇の即位当時に皇太子がいないため、弟の秩父宮を皇嗣としていたが、秩父宮は野心的な陸軍青年将校たちの間に人望があり、「国際協調主義者」「平和主義者」とみなされていた昭和天皇に対抗しうる皇族として担ごうとする勢力もうごめいていた。

 こうした騒ぎのなか、1933(昭和8)年に、昭和天皇に初めての男子が生まれ、継宮明仁(つぐのみやあきひと)と命名された。のちの平成の天皇(現・上皇)である。これにより宮中周辺から、皇位継承をめぐるさまざまな政治策謀の入り込む余地が排除された。もっとも昭和天皇の「国際協調主義」や「平和主義」を攻撃する野心的な陸海軍人の台頭はさらに進んだ。天皇の弟宮や伏見宮系皇族は皇族軍人として陸海軍の野心家たちとの接点も多く、天皇の「国際協調主義」と「平和主義」を突き崩す役割を担ったりもした。政治や軍事に介入する皇族の存在が、天皇にとっての「悩みの種」ともなっていた。

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第124代・昭和天皇。自身の意思により、日本の皇室に“一夫一妻制”の基盤を築いたものの、皇子がなかなか誕生しなかった。そんななかでの継宮明仁(平成の天皇)の誕生に、日本中が歓喜した。写真は1956(昭和31)年11月に撮影されたもの。(画像はWikipediaより)

再び開始された、天皇家「男系男子の継承」のつまずき

 その後、天皇の聖断で戦争は終結し、天皇の戦争責任問題に関する議論を抱えながら、日本は戦後復興の道を歩んだ。戦後の天皇家の問題は、男系男子継承より、戦争責任問題の有無にその重点が移ったともいえる。この間、平成の天皇は、皇太子時代に結婚して2男1女をもうけた。そして男系男子継承問題はすでに解決されたかのように思われていた。ところが、皇太子徳仁(令和の天皇)と雅子妃の間に愛子内親王が誕生した当時、平成の天皇の2人の男子には女子しかおらず、昭和天皇の弟にあたる秩父宮、高松宮、平成の天皇の弟の常陸宮においては1人の子女もいなかった。三笠宮家では3人の男子がいたが、みな逝去してしまった。

 こうして、盤石であったはずの天皇家の男系男子の継承の「つまずき」が、再び始まったのである。

「男系男子」120年の呪縛と、眞子さん皇室離脱劇との“つながり”

 戦後に皇室典範も改正されたが「男系男子」の条項は残っていた。そのため小泉純一郎内閣のもとで女性天皇・女系天皇への道を開く法律案もすすめられ、多くの国民の支持も得た。しかし、少数派ながらも男系論者の女系天皇反対の声が根強く、着地点が見えない議論が続いた。その後、秋篠宮家に悠仁親王が誕生し、議論は一段落したかに見えたが、悠仁親王後の継承をめぐって、またも議論がくすぶりはじめている。

 かくして、伏見宮禎子との婚約破棄から120年以上経っても、「男系男子」の呪縛は残されたままだった。「男系男子」を堅持するか、その条文を改正して女性天皇・女系天皇を容認するかは、これからの日本を支える人たちの選択に任されている。

 とはいえ、「男系男子」の縛りがある限りは、悠仁親王の代までの継承問題が解決しても、また次の代に同じような騒ぎがくりかえされるであろうことを誰もが懸念している。側室もなく、少子化が進み、皇后の身心の負担が増大し、国民の皇室への意識が流動的になっていく現代社会にあって、「男系男子」の条文が残るかぎり、皇室は常に政治的な混乱と混迷をくりかえすであろう。いちばん懸念されるのは、こうした政治的混乱と混迷の結果、国民が敬愛し得る皇位継承者がひとりもいなくなってしまうことだ。

 眞子さんの皇室離脱劇は、こうした皇室の危機と深くつながっており、今後のより重大で深刻な皇室危機のさきがけにも見える。

小田部雄次/歴史学者

小田部雄次/歴史学者

1952年生まれの歴史学者で、静岡福祉大学名誉教授。専門は日本近現代史。皇室史、華族史などに詳しく、著書に『皇族 天皇家の近現代史』(中公新書)、『肖像で見る歴代天皇125代』(角川新書)、『百年前のパンデミックと皇室』(敬文舎)、『皇室と学問 昭和天皇の粘菌学から秋篠宮の鳥学まで』(星海社新書)などがある。

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