高度経済成長期を中心に整備された社会インフラの老朽化が、社会問題となっている。とりわけ日常生活への影響が大きいのは、道路である。5月、1969年に全線開通してから半世紀を迎えた東名高速道路は、輸送車両の大型化や多発する短時間大雨などの影響で道路施設の劣化が急速に進む。2012年12月には山梨県の中央自動車道笹子トンネルで天井板崩落事故が起き、男女9人が犠牲となっている。道路の更新は国民の生命にかかわる喫緊の課題といえる。
しかし、それには大きな壁が立ちはだかる。費用の確保だ。国土交通省の所管分野だけでも、インフラの維持管理・更新費は20年後には今の1.3倍の約6.6兆円と推計されている。国の財政状況が厳しい中で、多額の費用を捻出するのは簡単ではない。ほかの分野の予算を削って道路に回せなければ、税金や国債で資金を調達し、現在または将来の国民に負担をかけることになる。
もしこれまで政府が努力して、道路の建設・運営に無駄な出費をかけずにやってきたのであれば、インフラ更新で税負担もやむをえないと国民も考えるだろう。けれども実際にはそうではない。最近も下関北九州道路をめぐって塚田一郎元国土交通副大臣の「忖度(そんたく)」発言が問題になったように、政府の道路計画は経済の原則より、政治の都合や利益によって左右されてきた。
中央集権国家と駅路
それは今に始まったことではない。前回の本連載で取り上げた、新元号「令和」の出典である万葉集が編まれた古代の日本でも、道路は政治的な目的を最優先して造られ、そのコストは国民に重くのしかかった。
古代の日本で、全国各地に張り巡らされた陸上交通網を「駅路」と呼ぶ。駅路の総延長は6300キロメートルにも及んだと推測されている。この距離は1966年に計画された高速道路網のうち、北海道を除く総延長(6500キロメートル)に匹敵する。古代の道路がこれほど大規模だったとは驚きだ。
駅路の特徴は、とにかくまっすぐなことである。スムーズな情報伝達を可能とするためには、できる限り最短距離を走るのがよいからだ。日本の国土には山や谷、川や湿地もある。それでも古代の為政者は国民を使役し、多少の丘は切り崩し、ぬかるんだ場所には土を盛るなどして、直線的な道路を通した。幅は最小でも6メートル、最大は30メートルを超える。
駅路はいつ、誰によって建設されたのか。研究者の意見は2つに分かれる。
ひとつは、白村江の戦いで日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れたことを受け、7世紀後半に天智天皇が国防のために作道を命じたという説だ。しかし、まっすぐで幅の広い道路は軍隊の移動にうってつけである半面、敵をも利することになる。
もうひとつは、7世紀末に天武天皇が中央集権国家を建設する政策として作道を命じたという説だ。古代の日本は中国を手本に、天皇を中心とした強力な中央集権国家の建設をめざした。中央にすべての権限を集中させ、地方には中央の出先機関を置き、中央から派遣された役人が統治を行う国家形態で、律令国家と呼ばれる。
中央集権国家にとって、中央と地方とのスムーズな往来は必要不可欠だった。中央の意思を速やかに地方に伝達するとともに、地方の出来事を中央に遅滞なく報告するためには、中央と地方とを直結する交通網が必要になる。
前述のとおり、駅路は直線的に造られているため、場所によっては、非常に長い区間、沿線にまったく集落が存在しない場所を通過するところさえある。つまり、沿線住民の利便性などはまったく視野に入れられていない。駅路とは「中央政府が地方を支配するために設置した道路網なのである」と日本古代交通史が専門の近江俊秀氏は述べる(『道が語る日本古代史』)。
駅路の沿線には駅家という施設が置かれた。駅路を利用する正式な使者(駅使)が宿泊したり休憩したりする施設で、駅使が乗る駅馬が飼われていた。馬の飼育など駅家にかかわるあらゆる仕事は、駅家の近くの農民(駅子)が担った。馬の飼育は餌代だけでも馬鹿にならないから、富裕で成人男子が2人以上いる家の仕事とされた。
馬の飼育以上に駅子の負担となったのは、駅使らが駅家を利用する際の宿泊、休憩、食事の提供などの接待と、馬を引き次の駅まで随行することだった。こうした負担を強いられる駅子には、税負担の軽減などの措置がとられたものの、場所によってはその程度の措置では十分でなかった。
大部分は地中に埋もれた
駅路の利用は本来、天皇の崩御などに伴う緊急の駅使にほぼ限られた。ところが8世紀に入ると、それが次第に拡大されていく。733(天平5)年には、中央と地方間における役人の移動は、公務にかかわるものであれば、内容を問わずにほぼすべて駅路を利用できるようになる。中央の動向が気になる地方の役人は、白鹿など珍しい動物をめでたい印であるとして献上するなど、何かと理由をつけて都に帰った。
その結果、駅路の利用頻度は飛躍的に増加した。農民は駅使の送迎に追われ、疲弊していく。備後・安芸・周防・長門国の駅家は海外の駅使の利用に備え、瓦ぶき白壁という荘厳な造りにしているが、その維持の負担に地元の農民が耐えられず、修理ができなくなった。これに対し政府は、長門国の駅家は海からも見えるので特別の手当てをせよと命じるなど、国の面子を保つために農民に負担を求めた。
奈良時代も終わりに近い8世紀後半、駅路に大きな変化が現れる。道幅が一斉に縮小したのだ。幅9メートル以上あったものが5~6メートルに狭くなるといった現象が全国で起こる。場所によっては、規模を縮小するだけでなく、路線そのものを付け替えた事例もある。全国で一斉に起こっていることから、中央政府の意図によると考えられる。
前出の近江氏は、駅路の縮小は光仁天皇あるいは桓武天皇によって行われた政策の一環と推測する。光仁天皇は、それまで増え続けた役所の数を整理し、運営経費の削減を図った。農民の負担軽減を目的とした「小さな政府」への衣替えである。次の桓武天皇もその路線を受け継いだ。
古代道路は建設に多大なエネルギーを費やしたにもかかわらず、今でも現役の道路として利用されている区間はごく一部であり、その大部分は地中に埋もれている。7世紀末から8世紀にかけて造られた駅路は、10世紀中頃の律令国家の崩壊とともに、二百数十年の歴史を終えた。
経済的な利便性を無視して政治的な目的でつくられ、多大なコストを庶民に押しつけたあげく、維持が困難になり、廃れた古代道路。現代の道路政策に重い教訓を突き付けている。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)
<参考文献>
近江俊秀『道が語る日本古代史』朝日選書
同『日本の古代道路 道路は社会をどう変えたのか』角川選書
同『古代道路の謎 奈良時代の巨大国家プロジェクト』祥伝社新書
武部健一『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』中公新書